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パワースポットとスピリチュアル

みなさん、こんにちは。


さて、過剰気味ともいえる「パワースポットブーム」です。

年に何回かしか会わないような友人にお願いごとをされたら、
絶対に聞かないような人が、パワースポットに行ってお願いごとをし、
挙句に、「効果」が得られなかったら、
「あそこってたいしたことないよ!」
なんて仰るのは、本当にどうかと思います。


そもそも、パワースポットとは、

「現世の雑音の少ないところ」

なのですから、そこでは自分と向き合う時間を取るのが
正解なのです。


お願いごとをしても、聞きません。
そもそも、「神様」は取引をしないのですね。



そして、「スピリチュアル」とは、人生の指針の1つです。

スピリチュアルの言葉通り、
思想の根幹は「スピリット=たましい=霊」ということ。

つまり、人間の本質は「たましい」であり、肉体が死んでも「たましい」は死なない。

そう考えた上で、「現世」をどう生きるのか。
ということを、考える(=哲学する)ことがスピリチュアルの本質です。

ですから、思想や哲学の範疇なので、
他人に押し付ける必要もなければ、恐怖でもって人を操る必要もない。



人生に疑問を感じた人、

「なんで、自分の人生はこうも不幸ばかりが続くのか。」とか、

「どうして、私にはいわれのない災難ばかりが降り注いでくるのか。」とか、

「どうして死ぬのに、人は生きていかなければならないのか。」とか、

そういう人たちが、「理由」を求める一助を務めるのが哲学であり、
その1つがスピリチュアリズムであると思うのです。



ユングやフロイト、ハイデガーやウィトゲンシュタインが
「宗教」でないのと同様に、スピリチュアルも「宗教」ではありません。

ただ、残念なことに今は、色々なものと十把一絡げにされているのも事実ではあります。


しかし、例えば自称ユング派の哲学者から、

「あなたの関与する集合的無意識を改善するために、
この水晶を買いなさい。」

なんて言われても、普通、
「は?」
ですよね?(笑)


フロイト派の人が、
「あなたのリビドーを活性化す
るためには、この壷が必要です。
買わないと、不幸になりますよ。」

なんて押し付けても、一般の人には、

「何言ってんだ、この人。単なるスケベ親父か?」
で終わってしまいます。(笑)


それがなぜか、スピリチュアルだと、

やれパワーストーンだの、
護符がどうの、
占いがどうとか、
鯉の滝登りストラップや、
黄色い財布や赤富士等、
という話と一緒にされてしまう。



全く関係ありません!!



「霊なんていない」
と思っていらっしゃる方は、
それはそれで良いと思います。
「霊はいるんです!」

なんて、別に目くじら立てて言う必要もありません。

ただ、本当に「霊がいない」と思っていらっしゃるのであれば、
そういう方々には、神社に行くことも無意味でしょうし、
ましてお墓なんてナンセンスでしょう。


全国各地にある、
「壊そうとしたり、移転させようとしたら、
なぜかその人が病気になったり、いなくなったりする。」

という「いわれ」のある工事をそういう方々に
依頼してみても良いかもしれません。(笑)



子どもやお孫さんが初めて描いてくれた、自分の似顔絵にも、

「なんだ、このヘタクソな絵は!
描くなら、もっとゴッホやルノワールのように高く売れるような絵を描きなさい。
こんな絵では、私は受け取れない。」

と言える方々なのでしょう。
そういう方々は、価値とは「経済価値」なのでしょうから。


末期のガンで入院して、もう余命幾ばくもないという状態のお母さんが、
一時退院が許され、
本当にこれが、家族のために作ることのできる最後の食事になるだろうと、
思って出したご飯に、

「なに、このマズイご飯。
ありえんし!

こんなんだったら、まだファミレスの方がマシ~!」

と言える息子や娘なのだと思います。


だからと言って、別に、私はその人たちを責めません。
その人の知識の限界が、その人を定義づけます。


広い目で見れば、
「誰も自分が悪い事をしている」
とは思っていないのです。

誰かを殺すことだって、脱税をして裏金を貯めていくことだって、
本人にしてみれば、結局「自分は正しい」と思ってしていることです。



早期教育で子どもを追い込んで、
結局子どもがウツになってしまったような場合であっても、
母親は少なくともそれを「良かれ」と思ってやっていたことです。


つまり、「性悪説」というのはありえない、ということです。


しかし、今まで自分が「正しい」と思っていたことが、
「何か、違うんじゃないか?」
と思ったところから、考え始めます。

そこから哲学が始まるのです。


それをお手軽にグッズや占いや加持祈祷の類で解決するようでは、
折角の「考える」機会を奪ってしまいます。
主体性がなくなっていくのです。


今、スピリチュアルを「ブーム」にしてしまっているのは、
残念ながらそういう方々です。

依存心を助長するやり方は、哲学ではありません。
依存心とは、それによって自分の可能性を狭められることです。



『あなたは何か』


この問いが、人生の最初にして最後の問いです。
この問いに、毎時間、毎分、毎秒、答えを出しています。


その答えの出し方も、いつも誰かや何かのせいにして、
「自分は悪くない」という風に、被害者の立場に立つやり方もあるでしょう。


けれども、それを自分でコントロールするというやり方もできるのです。


いつも誰かや何かに不平不満を言い続ける事もできますが、

「よし、この状況を自分の思うように変えてみよう。」
と思うこともできます。

他人が作った料理にブツブツ文句を言うくらいなら、
いっそ自分で料理してしまうという手もある、ということです。


その選択を自分でする、ということ。


その上で、
「現世とは、たましいの旅であり、死んだ後は何も持って帰ることができない。

持って帰れるのは、心に蓄積できた『経験と感動』だけ。

だから、心からこの世を楽しもう。

色々な経験と感動を味わおう。」



そういう考え方、そういう人生哲学が本当の意味でのスピリチュアルです。

「モノ」が目的ではない。
大切なのは、感じるという「心」。



お茶1つにしても、

「今日、あなたがいらっしゃると思って、
ちょっと遠くのお茶屋さんまで行って、分けて頂いたんですよ。

そこで、美味しいお茶の入れ方も教えて頂いて、
お出ししてみましたが、いかがですか?」

と出されることと、

「人の家に来るのに、お茶くらい自分で持って来るのが常識だろう!
人の手を煩わせるな! ばかもの!」
と言われること。

どちらが嬉しいでしょうか。


そういう心を大切にする、
という生き方がスピリチュアルということだと思います。

「虎は死して皮を残し、人は死して名を残す」


スピリチュアリズムは人の生き方を残します。

だから、頭でっかちに理論をあれこれ詰め込むよりも、
「実践」を重んじる「哲学」なのです。

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2010/06/28 15:57 | 未分類COMMENT(3)TRACKBACK(0)  TOP

コメント

自分が正しい。。。

私が子どもの頃、「自分が正しい。」と思って行った行動が、今、考えるととんでもないことだったり。。。
そんな事がたくさんあります。
今も、同じように、自分が正しいと思ってやっていることが、時々、どうなんだろう。。。と迷うこともあります。

これを「ぶれる」というのでしょうか?

ぶれているときに、何かにすがることが、依存心ということでしょうか?

ぶれても、自分で考え、選択していくことが、人生哲学なのでしょうか?

No:83 2010/06/30 11:05 | ゆいまま #- URL [ 編集 ]

Re: 自分が正しい。。。

ゆいままさん 江

コメント、ありがとうございます。

いえいえ、そういうのは「ぶれる」と言うのとは違うと思います。

人間は、みんな成長の過程にあります。
ですから、昨日の価値観で今日を生きることもできますが、
新しい価値観で生きることもできます。

それを選んで生きているのであれば、
それは「ぶれる」のではなく、「成長している」のだと思います。


依存心とは、自分で判断することをやめて、
誰かや何かにその決定権を委ねること。

自分で責任を取ることを放棄することです。

自分で考え、選択し続けていくこと。

その「自由」を満喫することが、人生哲学だと思いますよ。

No:84 2010/06/30 16:32 | どんぐり個別指導学院 ひろなか #- URL [ 編集 ]

なるほど。

>依存心とは、自分で判断することをやめて、
>誰かや何かにその決定権を委ねること。
>自分で責任を取ることを放棄することです。
>自分で考え、選択し続けていくこと。
>その「自由」を満喫することが、人生哲学だと思いますよ。

よく、分かりました!
ありがとうございます。

No:85 2010/07/02 12:36 | ゆいまま #- URL [ 編集 ]

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