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集団の中で活かされる個ということ

教育の目的は『子どもの自立を助けること』である。

その自明のことを、教育に携わるものは
肝に銘じておかなければならないと思う。



一定の知識を子どもたちに詰め込み、
その結果が、子どもの全てであるとする世界は、人の関係を固定化する。

そこでは、教師も人間であるというごく当然のことが忘れ去られ、
教師は子どもたちの前に君臨し、管理の教育は一層強化されていく。

人間の社会でありながら、人の愛おしさとか、
共に学びあうことの楽しさとは毛頭なく、競争という非常さだけが支配する。


子どもたちに与えられた最初の組織的な自立の場がそのようなものだとすれば、
そして、子どもたちがそれに対して異議申し立てや批判することを許されないとすれば
(実際には非行とか登校拒否とかという形で子どもたちの反乱は起こっているのだけど)、
子どもたちにとって『教育の場』というものは、地獄に等しいもので、
そこはもう早くくぐり抜けたいだけの、何の希望も無い場所になる。


残念ながら、学校というものをそういう風に見ている、
或いは、感じている子はなんと多いのだろうか。


自立を果たすのは子どもたち自身であり、
教師はそれを助けるという関係を、
私達『教育者』は守らねばならない。


そして、それは思想とか、さしあたっての教育観からそうするのではなく、
いわば、その教育者の人間観から、そうせざるを得ないという必然が、
そういう教育を強いものにしているのだ。






かつて高槻市の小学校に勤めていた園田さんのクラスに江島くんという「障害児」がいた。
耳鼻科検診のとき、医者の態度に怯えて泣き出してしまう。

園田さんは次のように言う。

「……切ない瞬間でした。
限られた時間の中で大勢の子どもたちを診なければならない医者の大変さは
充分理解できます。
しかし、入り口から泣き続けていた江島くんの姿は、
お医者さんの目にも留まっていたはずでしょう。


ふだんは、耳が痛くても、鼻が痛くても、
自分で上手く表現できない江島くんなんです。

そんな彼にとって、今日のような個人検診は、
またとない機会なんです。


あの時、最初からお医者さんの方が椅子から立ち上がって、
一歩でも二歩でも江島くんに向かって歩んでくれていたら、
きっと事態は違っていたでしょう。

彼は、天井の扇風機をじっと見上げて得意になっていた時なのですから…。


ところが、そのお医者さんは、そうはせずに江島くんの腕をつかんで、
自分の方へ引き寄せた。




そこで江島くんは激しく泣き始めたのだ。



そして、そのお医者さんは吐き捨てるように言った。


『泣く子は診られない。』



それは事実と違う。

江島くんは泣いたんと違う。

お医者さん、あんたが泣かしたんや。



そう思うと、もう僕はいたたまれない気持ちになりました。




実は、このお医者さんと僕がオーバーラップしてしまったんです。



子どもの方に向かって歩む一歩を忘れて、
子どもを力づくで自分の下へ引き寄せてしまおうとする医師・教師。

……それが、子どもの前に立つプロのすることでしょうか!


僕もきっと、これまで気付かぬうちにこのようにして、

幾人もの子どもを胸の内で泣かせてきたんだろうって…。」






1週間後、学級写真を撮る。


カメラのフラッシュが焚かれたために、
江島くんは驚き、また激しく泣き出してしまう。

写真屋さんは駆けてきて、こう言った。


「先生。
大変ショックだったようですね。

この子のあごがガクンと上がりましたからねぇ。」


写真屋さんはしゃがみこんで、
江島くんとなにやら話を始める。

やがて機嫌が直った江島くんは、
みんなのところに戻るのだが、誰かが言い出して、

みんなで肩を組んで写真を撮ってもらったそうだ。




この2つの出来事に触れて、園田さんはこう言う。



「一人ひとりを診てもらうはずの個人検診で、
『泣く子は診られない』と言ったお医者さん。

学級の全員を写してもらう集合写真で、
『大変ショックだったようですね』と駆け寄ってくれた写真屋さん。


個人検診で『個』が大切にされず、
集団撮影で『個』が大事にされた今回の2つの出来事。


それは、江島くんから僕に贈られた貴重な示唆(しさ)なのだと思っている。




あの青年写真家は、集団写真を撮るときでも、
ファインダーをのぞきながら、
いつも一人ひとりの子どもたちを活かそうと
シャッターチャンスを狙っているのだろう、きっと。



集団が構成され、何かが始まろうとするとき、
ややもすれば、集団全体の利益や体裁というものが優先され、
しばしば個の存在がおろそかにされがちである。



しかし、これはまずい。


『集団の中でこそ、個が活かされる』


容易なことではないが、
この視点を忘れた集団活動は誤った集団主義と言わねばならない。」






例によって、園田さんのくだりは、前出の「優しさとしての教育」からの抜粋だ。
まさしく、ボクにとって、この本は「宝箱」のような一冊である。



現代ほど、個人の価値が高い時代もないと思う。

スポーツ界やビジネス業界などでも、
普通のサラリーマンが一生かかっても稼ぐことができないような金額を
1年で稼ぐ人も沢山いる。


しかし、その半面で年間3万人を超える自殺者がいるということは、
個人の価値をとても低いものと見ている、
見限っている時代もないだろう。


教室の中に40人の子どもたちがいれば、
40通りの個性があり、それぞれが異なった生命を持っている。


1つとして同じものはない。


ボクは「教育」と言うものに対して、
「教える」という一方的な立場は取りたくはないし、
「導く」程の「真理」はまだ会得していない。

まして、「しつける」という画一的な価値観を植えつけるのも
(社会的な最低点の礼儀は別として)、何か違和感を覚える。


飽くまで、「添う」ことを通して、一緒に生きていきたい。



「彼にはどのようにして添ってやれば良いのか」

「彼女にはどのようにして添ってやれば良いのか。」

と、40通りの添い方を考えなければならない。


それが、子どもたちに何かを教える者としての仕事だと思う。


勿論、自戒の念も充分に含んで書いている。

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2010/05/18 23:20 | 未分類COMMENT(0)TRACKBACK(0)  TOP

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