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お彼岸

みなさま、こんにちは。

お彼岸、いかがお過ごしでしたか?
天気もまずまず良いので、お出かけになる方も多いかもしれませんね。

私はまだ赤ちゃんが小さいので、お出かけは出来ませんでしたが、嫁の実家のお墓参りに行ってきました。


7歳の息子が、
「今日は、オレが般若心経を言うからな!」
と、いつの間にか覚えた般若心経をお墓の前で唱えてくれました。
嬉しい瞬間です。


般若心経を唱えてくれたことが嬉しいのではなく、
その心に嬉しく感じました。



しかし、お墓参りに来て、毎回驚かされるのは、そこのゴミの量です。

確かに、「自分」のお墓の周りだけはキレイにされている方が多いのですが、通り道やお墓とお墓との間にある溝のようなところには、お弁当ガラだとか、ビニール袋、紙コップ、などなど、本当に色んなゴミが捨ててあります。


以前、見るに見かねて、ゴミ袋を家から持ってきて、ゴミ拾いをしたことがありました。
私のその様子を息子が見ていて、
「父ちゃん、俺も手伝う~!」
と、隣でゴミを拾ってくれました。

15分ほどで、大きなゴミ袋いっぱいになった覚えがあります。


先日は、お墓参りの後、来客の約束がありましたので、時間を取ってゴミ拾いもできませんでしたが、ちょっと回りにあるゴミだけを拾っても、結構な量になりました。


誤解をされるかもしれませんが、私は、「お墓参り」に行ってゴミを増やすくらいなら、行かない方が良いと思います。

「自分のお墓だけがお花も飾ってあってキレイ。」
「自分だけは(だけで)良い。」

という考え方を死んだ人の立場で考えた時、
その人たちが本当に喜んでくれるでしょうか。


お墓参りは、お願いをしに行くところではありません。

「素敵な彼氏が欲しいです。」とか、
「宝くじを当ててください。」とか、
「受験で合格しますように。」とか、
「家庭の不和をなんとかしてください。」とか、
そういうことを言っても、何の解決にもならないと思います。

それはもし、自分が死んだとき、お墓で子どもや孫達がそういう話をされてもどうすることもできないことを考えれば分かると思います。


人が死んだら無になる、と思っている方は、それはそれで良いと思います。
でも、誤解してもらって困るのは、
「人は死んだら、すぐ仏になったりする」
ということを信じておられる方々です。

人は死んでもすぐ仏にはなれません。
もし、すぐ仏になるのであれば、折角この世に生きたことの意味がありません。



お墓参りの意味とは、
先祖への感謝と、「死」を思うことで「生」を改めて活かすことを考える場を提供すること、だと思います。


お墓参りに行かなかったからと行って、「先祖の祟り」などはありません。
自分の子どもをわざわざ「不幸」にしようと思う親が、どこにいるでしょうか。


しかも、その「親」とは、もうお金も必要ないですし、健康について気をつける必要もない。
時間も「死ぬほど」ある人たちです。(笑)

つまり、自分のことについて何も「必要」を感じない人(死者)を、生きている人たちが「自分」たちと同じような「必要性」のモノサシで考えることは、少々ムリがあります。


むかし、江原啓之さんが、
「霊とは、非科学でなく、未科学なのだ」
と言っていましたが、まさにその通りになっています。


筑波大学名誉教授の村上和雄博士は、高血圧の原因物質であるレニンの発見者として知られていますが、その村上先生の著書
『遺伝子オンで生きる』(サンマーク出版)
によると、アメリカでは現在、祈りの科学的研究が盛んに行なわれているそうです。

「たとえば、ハーバード大学、コロンビア大学、デューク大学などアメリカでも権威ある有名大学で、祈りの効果が研究されはじめ、すでに研究事例は一二〇〇を超えている。そして《精神神経免疫学》という新しい学問分野が開かれようとしている」
そうです。

日本でも、公立の大学で、「ヒーリング」が授業の単位として認められてきました。




「死」を考えることは、「生」を活かすことにつながります。





こんな詩もあります。



・・・・・・・・・・・・

生きるとは



人間において生きるとは、

ただ単に生き永らえる事ではない。

人間において生きるとは、何のためにこの命を使うか、

この命をどう生かすかということである。

命を生かすとは、何かに命をかけるということである。

だから生きるとは命をかけるということだ。

命の最高のよろこびは、

命をかけても惜しくない程の対象と出会うことにある。

その時こそ、命は最も充実した生のよろこびを味わい、

激しくも美しく燃え上がるのである。

君は何に命をかけるか。

君は何のためなら死ぬことができるか。

この問いに答えることが、生きるということであり、

この問いに答えることが、人生である。


芳村思風


・・・・・・・・・・・・・・・・・・


昔の日本人は、定期的に「死」を考える時期、時間を取ったのでしょうね。
だからこそ、「潔さ」を重視したのではないでしょうか。

日本人が好きな桜は、散り際がもっとも美しい。

その美的な感覚とは、生死感に根付くものだと思います。

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2010/08/15 10:33 | 未分類COMMENT(0)TRACKBACK(0)  TOP

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