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好きな本より

みなさま、こんにちは。


最近頑張っている中3のAさん。
昨日も、自習に来ていました。
今までやってなかった分の取り返しは大変だけど、覚悟を決めて頑張るそうです。

暖かく見守っていきたいと思っています。



さて、灰谷健次郎さんの『わたしの出会った子どもたち』という本があります。



私にとっては、読むのはとてもツライ本です。

ですが、「本当の優しさ」とは何か? 
ということを考えさせられる、とてもあったかい本です。

そして、いつも泣かされる悔しい本なのです。(笑)


1つだけその中のエピソードを紹介したいと思います。
(文庫版70ページより要約)



骨くんの話


人間の優しさや、楽天性の通らない社会は
どこかに大きな病巣を抱えているものだ。

人間の犯す罪の中でもっとも大きな罪は、
人が人の優しさや楽天性を土足で踏みにじるということだろう。


骨くんこと「たかはし・さとる」は、
他の子どもたちと同じように真新しいランドセルを背負って、
1年2組のぼくのクラスに入学してきた。

少しびっこを引いているところを除けば、
他の子どもたちと少しも変わることはなかった。


(しかし)実は、さとるは大きな障害を持って入学してきたのであった。

前年、幼稚園からの帰り、ダンプカーにはねられ、
右大腿部切断という大事故にあっていた。


少しびっこを引いているのは、義足をつけているからである。


その後、さとるは、学校を休みがちになる。

友だちがいじめたというわけでもない。

担任のぼくが嫌いというわけでもない。

勉強は好きだというのである。



じゃあ、どうして学校に来ないの、と聞くと
貝のように口を閉ざしてしまう。


親が親の顔をし、教師が教師の顔をして理詰めで攻めてくる。
そういう世界がさとるは嫌だったのだろう。
そういう世界に孤独を感じていたのだろう。






ぼくは途方に暮れた。



毎日5年生にいる姉が届けてくれる手紙だけが、
さとるとつながり合える細い道だった。





ある日、ぼくは彼の手紙を読んでいた。

学校を休んで深江の浜に遊びに行ったということが書いてある。
その光景を想像してみる。

寂しい風景だ。


手紙を読み進める。



カニを取って、カンに入れたと書いてある。

そして、次の一文にぼくの魂を凍らせるようなことが書いてあった。



「・・・ぼくは あしのちぎれたカニばかりとって カンカンにいれました。」



呆然とした。




たった6歳の子どもが、ひとりで海に行き、
足の欠けたカニを友だちにして遊んでいた。

ぼくはさとるにとって何だったんだろう。

激しい後悔がぼくをいたたまれなくする。


ぼくはペンを取り、1字ずつ精魂を込めて、彼に手紙を書く。



「せんせいは、さとるちゃんがすきやで。

なんぼ、ぎ足をつけとってもすきやで。

ぎ足をつけとうから、よその子よりも、もっともっとすきやで。

つらいことがあったら、てがみをかきよ。」



さとるは少しずつ学校に来るようになった。

もともと彼は、手紙を書くということも苦には思わない子どもだったが、
ものを書くということに、
非常に意欲を持っている子どもだということが、わかってきた。


彼は次々にはじけるように表現していった。
おどろいたことに、どの表現も明るさに満ちているのである。

信じられないことだった。





あべこべの国

ここがあべこべの国やったらおもしろいぞ
金もちがびんぼうで
金1円ももっていないのがおお金もちや

どろぼうがきたら
「手をあげろ」じゃなくて
「足をあげろ」というから
どしんとしりもちをつく
そしてどろぼうが金くれんねん




ある感動的なシーンが生まれる。

秋の運動会のことだった。

1年生のかけっこの順番がまわってきた。

ぼくはいくぶん、躊躇しながら、さとるに言った。

「さとる。走るか?」

一瞬、彼は怪訝な顔をしてぼくを見た。




ぼくはあわてて言った。

「よしよし、がんばってこいよ。」


ピストルが鳴った。
小さな兎たちはいっせいに飛び出した。
さとるは駆ける。
真っすぐ天を向いて・・・。

義足が鳴る。
熱い息が出る。
さとるは懸命に駆けていた。


しかし、さとるがやっと折り返し点を回ったとき、
さとる以外の子どもたちは全員ゴールに駆け込んでいたのである。


さとるは広い運動場をひとりで駆けていた。
運動会特有のあのやかましい音楽が奏でられているのに、
運動場はシーンとしている。



―――そう感じてしまうような雰囲気だった。



いつ転んで泣き出すか、
観客のそんな思いが、
周りの空気を固く、
冷たくしていた。


さとるは、しっかり前を向いて駆けていた。

前に広がる青い空だけを見て駆けていた。

自分の力のありったけを出して駆けていた。




無心の眼だった。

観客はいつしかその眼に吸い込まれていった。

観客のはらはらした気持ちが、
感動に変わりつつあった。




さとるがゴールに近づいたとき、猛烈な拍手が巻き起こった。



突風のように・・・。



しかし、拍手はいつまでもいつまでも鳴り続くのだった。




あの激しい拍手はいったい何だったのだろうか。

さとるの力走を見ていた数千人の子どもたちと親たちは、
そのとき、さとると同じように片足を失くし、
義足を着け、
そして走ったのだ。

そうでなければ、あの激しい拍手がおこるはずがない。


鳴り止まない拍手の中、
ついにさとるはゴールに駆け込んだ。


駆け込んでから、伏し目がちに、
あの恥ずかしそうな眼が、ぼくを見て笑った。








このあと、灰谷さんは、
さとるくんが「楽天性を発揮できた」関係を、
「孤独と孤独がダブったときに起こる、対等ともいうべき共感」
と述べています。



そして、
「そういう関係こそが、共に学びあい、共に伸びていく人間関係ではないか。」
と問いかけています。




最後には、

「ほんとうに人間を愛することのできる人は、
本来、楽天家であると、今、ぼくは思う。

そして、楽天主義者こそが、
ほんとうの批判精神の持ち主であるとも思う。」


という言葉で締められていました。



『優しい人』は、必ずその裏で「苦労」をしています。

人に言えない苦しみや悩みを越えてきています。
だから、「その分」だけ、人に優しくなれるのでしょう。
優しさとは、苦労の「絶対値」なのでしょうから。


私が人に優しくしてもらったとき、
その人が背負ってきた「苦労」を垣間見ることがあります。


少しでも、その「荷物」が軽くなれば、
と私は心から祈ります。

そして、その「重さ」を背負える「心」を持った、
その人に心からの尊敬に似た気持ちを抱くのです。


子ども達には、なるべく「苦労」はさせたくない、
というのは切なる親心なのでしょうが、
苦労を知らなければ、人の痛みがわからない。

その矛盾を抱えることが、
「親行」ということなのかも知れませんね。

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2010/11/30 17:11 | 未分類COMMENT(2)TRACKBACK(0)  TOP

『普通』と『自然』 (再掲)

今は、仕事で『どんぐり倶楽部』のHPを本当に隅々まで見させていただいている。

学ぶことが多くて、見飽きないのが、難点だ。(笑)


主催の糸山さんは、勉強する理由をこう答える。

「人生を楽しむため」

全く、その通りだと思う。


今の教育は「短絡的正解追求型思考(単に答えがあってればいいんでしょ?思考)」の子どもばかりを育てている。


ボクも、それは塾で教えていた頃から感じていた。

「で、答えは何なん?」
と聞く生徒が本当に多いのだ。


こちらが「やり方」を説明していても、
とにかく、答えだけを暗記しようとしている子どもたち。


そういう子どもと付き会うのは、本当に時間がかかる。
まずは、雑談から「人の話を聞く」ということの大切さに気づいてもらわないといけない。

「気づく」なんて大げさなことではないのだけれど、要は、話をすることが楽しいと思って欲しいのだ。



人生を楽しむこと。



これを反対から言えば、


「人生の恐れをなくすること」


だと思う。これは、江原啓之先生の言葉だ。



恐れをなくすこと。

病気になることが怖い。
誰かから恨まれるのが怖い。
事故に遭うのが怖い。
破産するのが怖い。


究極は死ぬのが怖い

だろう。




しかし、「死」さえも、「楽しめる」ならば、何にも恐れるものはない。

実際、「死」というものはない。
あるのは、「形を変える」という現象だけだ。

もう少し専門的に言うと、
「波動の振動が変わった」
だけだ。

紫外線や赤外線が目に見えないように、
肉体を脱いだたましいは、肉眼で見えない。

ただ、感じることができるだけだ。




糸山さんも、江原先生もシュタイナーを例に挙げられていることが興味深い。


人生において、「哲学」をしたならば、行き着くところは、同じようなところなのだろうと思う。

あとは、どういうアプローチをしたか、
という違いだけだ。



そういう人たちが現世で出会えば、きっと言葉は要らないのだろう。

それは、「見えている」からだ。



ボクも、生徒たちと話していると、
「○○なんじゃない?」
と言ったことが、
「なんで、センセ、そんなこと知っとん?」
と驚かれることがある。

そういうときは、その情景が脳裏に見えているのだ。
それを共有することで、
「あなたの気持ちはわかるよ」
と伝えると、子どもは安心するのだと思う。

「分からない」・「わかってもらえない」というのは、「不安」なのだ。



子どもたちには温かい言葉のシャワーが大切。

これも糸山さんの言葉だ。


これもそうだと思う。


温かい言葉とは、もちろん、「形」ではなくて、「思い」の方だ。

いくら
「あなたのことが大切なのよ」
と言ったところで、心のない言葉は、子どもには通用しない。

テレビの前に寝転んで、漫画を読みながらオセンベを頬張って、お尻をかきながら、
「あんたのことが大切なのよ。パリ、もぐもぐ」
なんて言われても、全然、心に響かないのと同じだ。(笑)


その辺りは、子どもは本当に敏感なのだ。
特に、評価をいつも気にしているようなこと子どもは、
愛に飢えているから、当たり前だ。

自分はもう十分に愛されていると安心した子どもは、
他人の評価に左右されることはあまりないのだ。


だから、やはり、
「どれだけ言葉をかけたか」
という量ではなく、
「どれだけ心を込めたか」
というところに行き着く。


言葉は結局「容器」でしかない。

「思い」を入れるために、
あるいは、思いをある程度「形」に固定するための
「入れ物」なのだ。


長靴のグラスに水をいれたからって、
水が長靴の形になっているわけじゃない。

それに、何を入れるかは、入れた人が決めることだ。
それをどう受け取られるかは、また別の問題だ。



だから、何度でも、何度でも、体温を届けるために
温かくて飲みやすい飲み物を入れ続けようと思う。


砂漠がいつか、草原になるように、
疲れた心にも、きっとハスの花が咲く日がくるだろう。



2010/11/24 17:28 | 未分類COMMENT(0)TRACKBACK(0)  TOP

「答え」を出さない大切さ

みなさま、こんにちは。


昨日も自習に来ていた中1の人男子。

「センセ!
ちょっとこの問題教えてください。」

どれどれ、とのぞいて見ると、国語の文章問題!(笑)

「あ、ちょっと時間くれる?
センセも読まないと分からんから。


あ~、これはね~・・・。」

等と指導をしておりますが、その間、彼がよく使う言葉は、

「答えがわからん」

ということです。



逆に言えば、「答え」を出す事が、今の教育方法が子ども達に求めていることなのでしょう。


答えを出せる人が「出来る人」で、答えを出せない人が「出来ない人」。


そんな窮屈な二元論の世界に子ども達を押し込めておいて、
高校になる前に、

「さぁ、これから自分の進路は自分で決めなさい。」

なんて急に言われても、面食らいますよね?(笑)




答えを出せば、ある程度、
心を落ち着かせる事ができるのは事実です。

しかし、だからと言って、
人生の目的が「落ち着くこと」だと思うのは、
早計だと思うのです。


私は、敢えて『答え』を出さない事の方が、
大切なのではないかと思います。


そもそも、『答え』とは何か、ということです。


「世界で一番美味しい料理は何か?」


という問題に、明快な答えを出すことはできません。


しかし、そもそも、何故そのような問題に答えなければならないのか、
という答えもありません。



オリンピックや世界陸上で行われている100メートル走も、
「現時点で」の話はできますが、記録が更新される限り、
「世界で最も速く100メートルを走れる人」
の答えは出ませんよね。


そもそも社会全体に「答え」がないのに、
学校で「答え」を求めさせる教育をするのも、
根本的に目的が違うような気がします。




学校では社会性を育む事が求められているのであれば、
大切なのは、考え方の多様性を認めることだと思います。



「自分(だけ)が正しい」ということではなく、
相手の意見や考えに対しても、「そういう見方もあるよね」と思えること。


そして、1つの事実に対しても、一方的な解釈だけでなく、
相手の側からも考えてみること。





日本には、馴染みのないアメリカの習慣に、「Thanksgiving Day」があります。

「感謝祭」と訳されて、11月の第4木曜にお祝いをしています。
もうすぐですね。


その起源としては、1620年12月26日に、
イギリスの清教徒団"ピルグリム・ファーザーズ"が、
イギリス教会の宗教弾圧を逃れ"メイフラワー号"で
アメリカのマサチューセッツ州プリマスに到着したことからです。



上陸した年の冬は寒さがとても厳しく、
さまざまな困難にも見舞われ、
上陸当時100人程いた清教徒のほとんどが寒さや飢え、
そして病気などによって命を落としました。

彼らは、地元の「原住民」ワンパノグ族の酋長マサソイトに食料を与えられ、
何とかその冬を越すことができたそうですが、
生き残ったのはたったの50人位だったと伝えられています。


生き残った人たちは、
先住民であるネイティブ・アメリカン(インディアン)に狩猟や農耕を教わり、
春夏一生懸命働き、結果として秋には収穫できる作物もありました。


そして、その収穫時には、彼らが作った教会に集い、
会食を催して収穫を喜び、神に感謝を捧げたそうです。

この席に、入植者の恩人であるインディアン達も招かれました。



インディアン達は、お礼に七面鳥や鹿の肉を持って来ました。

そして、清教徒の一団とインディアンたちは、
3日間戸外のテーブルに食物を山と積んで、
神に感謝を捧げ、讃美歌を歌ったのです。


これが一般的に言われる『Thanksgiving Day』の起源というわけです。


しかし、この話には続きがあるそうです。



七面鳥で元気になった清教徒らは、
マサソイト曾長の死ぬのを待って
彼らの領土を奪い始めます。



抵抗した息子は殺され、
その首は20年間プリマスの港に晒されました。

彼の妻子と一族も、まとめてカリブの奴隷商人に叩き売られたそうです。




土地を手に入れた清教徒たちは、
働き手と「妻」を最寄りの奴隷市場に買いに行きました。



実は、奴隷市場はメイフラワー号が着く一年前に店開きしていて、
最初の売り物は140人の英国の白人女囚だったという記録が残っているそうです。



新大陸は、まず「神に仕える」男たちが入植し、
ある程度の生活基盤ができたので、
次に必要なのはそれを発展させること。

つまり子孫でした。



それで英政府は、
万引き程度の罪でもみな『島流し』を宣告して、
新大陸に送りこんだそうです。



もし、本当に「神に仕える」清教徒たちが、
感謝祭に伝えられるような心根を持った人たちであれば、
ウーンデッドニーのインディアンの大量虐殺の様なことは、
起こらなかったでしょう。



別に、私はここでアメリカ人を非難しているわけではありません。


ですが、そういうことも、
きちんと子ども達に教えた上で七面鳥を食べるなら、
それでも良いと思います。


「私達のそう遠くない祖先の人たちは、
こういうことをしてきたんだよ。

それについては、どう思う?」


それが、歴史を学ぶ理由です。

そこには、「答え」は必要ありません。


「考える」ということ。

そしてその結果、
「どういう自分でありたいのか」
ということを決めること。

それが目的のような気がします。

2010/11/20 12:23 | 未分類COMMENT(0)TRACKBACK(0)  TOP

『サンタクロースって本当にいるんでしょうか?』

みなさま、こんにちは。

街はすっかりクリスマスモードですね~!

デパートでクリスマスの曲がかかっていたりすると、
なんとなく嬉しくなりますが、
同時に気ぜわしい感じがするのは、
私だけでしょうか・・・?笑



さて、1897年の9月21日は、『ニューヨーク・サン』紙に新聞記者フランシス・チャーチさん
が、社説「サンタクロースは実在するのか」を掲載した日です。

もうかなり有名な社説ですので、ご存知の方も多いとは思います。
改めてご紹介しますと、当時ニューヨークに住んでいた8歳の少女、バージニアは小学校で「サンタクロースはいるのか」ということで、友だちと口論になったようです。

そこで家に帰り、医師である父に相談したところ、
「『ザ・サン』の新聞記者さんに相談してごらん」
という返答をもらいます。

バージニアは次のような手紙を送り、『ザ・サン』に送りました。



こんにちは、しんぶんのおじさん。
わたしは八さいのおんなのこです。
じつは、わたしのともだちに「サンタクロースはいない」という子がいます。
パパは、わからないことがあったら、「サンしんぶんにきいてごらん」
といいます。

おねがいです。ほんとうのことをおしえてください。
サンタクロースはいるのですか?

ヴァージニア・オハンロン



この8歳の女の子の手紙にフランシス・チャーチ記者はこう答えました。



ヴァージニア、おこたえします。
「サンタクロースなんかいないんだ」という、あなたのお友だちは間違っています。

きっと、その子は何でも疑いたがる年頃で、目で見たことがないと信じられないんだね。
そして、自分の見たことだけ、分かることだけが、全部だと思ってるんだよ。

でもね、ヴァージニア、
大人でも子どもでも、全部が分かるわけじゃない。

この広い宇宙では、
人間って本当に小さな小さな生き物なんだ。
ぼくたちには、
この世界のほんの少しのことしかわからないし、
本当のことを全部分かろうとするには、
まだまだなんだ。


実はね、ヴァージニア、
サンタクロースはちゃんといます。

愛とか
思いやりとか
優しさとかが
ちゃんとあるように、
サンタクロースもちゃんといるし、
愛も
サンタクロースも、
ぼくらに輝きを与えてくれる。

もしサンタクロースがいなかったら、
ものすごく寂しい世の中になってしまうよね。
ヴァージニアみたいな子がこの世にいなくなるくらい、
ものすごく寂しいことだよ。

サンタクロースがいなかったら、
無邪気な子どもの心も、
詩を楽しむ心も、
人を好きって思う心も、
全部なくなってしまう。

みんな、何を見たって面白くなくなるだろうし、
世界を楽しくしてくれる子どもたちの笑顔も、
消えて無くなってしまうんだよ。



サンタクロースがいないだなんて言うのなら、
妖精もいないっていうのかな。

だったら、パパに頼んで、
クリスマスイブの日、
煙突という煙突、全部に人を見はらせて、
サンタクロースが来るかどうか確かめてごらん。

でももし、
サンタクロースが来なかったとしても、
何にもかわらない。

だってサンタクロースを見た人なんていないし、
だからと言って、
「サンタクロースがいない」
っていう証拠もないんだから。

大事なことは、誰も見た人がいないってこと。

あなたは妖精が原っぱで遊んでいるところを見たことがあるかな。
あるいは、お友だちで誰か見た人っているかな? 

うん、いないよね。
でも、だからと言って、妖精がいないって証拠もないんだ。

世界で誰も見たことがない、
見ることができない不思議なことって、
本当のところは、まだ誰にもわからないんだ。


振ったら「ガラガラ」って鳴るオモチャがあるよね。
その中を開ければ、玉が音を鳴らしてるってことがわかる。

でも、この不思議な世界には、
どんな強い人でも、どんな強い人が束になってかかっても、
こじ開けることのできないカーテンみたいなものがあるんだよ。

無邪気な心とか、
詩を楽しむ心、
愛とか、
人を好きになる心だけが、
そのカーテンの向こう側にある、
ものすごくきれいで素晴らしい世界を見たり、
描いたりすることができるんだよ。

嘘じゃないかって? 

ヴァージニア、
これだけは言える。

いつでも、どこでも、これは、本当のことだよ。


ヴァージニア、
何千年、
いや、
あと十万年たっても、
サンタクロースはずっと、
子どもたちの心を、ワクワクさせてくれるよ。

サンタクロースは、ずっと、いつまでもいます。




その後、ヴァージニアは、
ニューヨークの学校の先生になって、
47年間、子どもたちを教え続けたそうです。


「目に見えない物への敬い」
という気持ちが、本当に薄くなった昨今。

改めて気付かされる事が多い社説ですよね。


2010/11/13 13:29 | 未分類COMMENT(0)TRACKBACK(0)  TOP

いい感じですよ~!

みなさま、こんにちは。


ぞくぞくと中間テストの結果が返却されてきています。

塾に来るなり、

「センセ~!! 見てぇ~!!!!」

と答案用紙を見せてくれたSちゃん。


なんと英語が77点でした!


「今まででこんな良い点、
取ったことがない!!」

と嬉しそうに言ってくれました。


続いて、Uさん。

黙って差し出してくれた答案は、英語の87点。


「おお~! すごいじゃん!」

そういうと、少し恥ずかしそうに、でも本当にいい笑顔で微笑んでくれました。


この子も、1学期の期末テストは、40点台だった子です。



生意気盛りのT君も、ややぶっきらぼうに見せてくれたテストは79点。

「やるね~!」

少し微笑んでくれました。
やっぱり、褒めてもらいたいんですね。笑



こうも劇的に点数が上がった生徒ばかりではありません。

もちろん、いままでも80点だった子が、今回も80点台をきちんと
取れることも本当に頑張った成果だと思います。

また、今回残念ながら点数を下げてしまった生徒は、
今回の反省を次回に活かしていきたいと思います。


まぁ、担当している教科では、点数を下げた生徒はいないのですが。笑

でも、入試は総合点の勝負ですからね。
担当外の教科にも気をつけて参りたいと思います。



今月に入って、新規で3名のお申し込みを頂いています。

残席も残り少なくなっております。


塾をお考えの方は、どうぞお早めにご一報頂けると
嬉しいです。

どうぞ、宜しくお願い致します。

2010/11/08 17:16 | 未分類COMMENT(0)TRACKBACK(0)  TOP

Yちゃんの成長

みなさま、こんにちは。


去年から、ここ『どんぐり個別指導学院』に通ってきてくれている
小2のYちゃん。

最近の成長が著しく、見ていても本当にすごいです!


先日、1問に80分かけてガンバってくれました。


その問題はこちら。



フンコロガシ組[ぐみ]は毎朝[まいあさ]3人[にん]一緒[いっしょ]に
2カ所[にかしょ]の公園[こうえん]へ行[い]って5個[こ]ずつのフンを集[あつ]めます。

ウンコロガシ組は毎朝4人一緒に3カ所の公園へ行って
2個ずつのウンコを集めます。

では、1週間[いっしゅうかん]で集めたフンと
ウンコの数[かず]はどちらが何個[なんこ]少[すく]ないでしょう。



これをすぐ「カケザン」で計算できる子は、相当カケザンの意味が理解できている
子ですね。

大抵の子は、残念ですが

「え~! これってどうするん!?
足し算? 引き算?」

そして、しばらくして

「わからん!」

とさじを投げてしまうのが、パターンです。


スピードや答えだけを求められてきた「教育」の成果が
如実に現れます。
本当に残念なことです。


Yちゃんは、早速絵を描き始めました。


こんな感じになりました。

201009171804000.jpg


学校の先生に
「これが算数の答案です!」
なんてお見せしたら、驚かれるでしょうね。笑


Yちゃんは、1枚の紙では足らず、

「せんせ~、紙ください。」

と2枚目に突入しました。


201009171805000.jpg


まだ足りないようです。


「せんせ~、もう1枚くださ~い」


「いいよ~! あと10枚くらいいる?」笑


「え~、そんなには、要らんと思う。」笑


で、書き上げたのがこちら。


201009171804001.jpg


最初は、顔も描いていたのですが、だんだん
省略されてきました。笑


そして、数を数え始め、何度か計算ミスはあったものの、
最終的には、正答にたどり着けました。


「やった~!!

センセ! もう1枚ちょうだい!」


「もう、今日はすっごく頑張ったから、
また来週にしようね。

今日はYちゃん、すごかったよ!
来週も楽しみだね!」


そういうと、ニコ~としてくれました。



こういう
「なかなか正答にたどり着けない問題」を

「メンドクサイ」
と思うか、
「楽しい」
と思うかで、将来の「学力」の差が出てくるのだと思います。

そして、その「学力」とは、「生きる力」そのものなのです。

2010/11/01 09:57 | 未分類COMMENT(0)TRACKBACK(0)  TOP

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