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速さを強制しないこと

みなさま、こんにちは。


先日の小6と中2の授業でのこと。

中2の子たちは、分数が苦手のようでしたので、
基本から教えていきました。



「『÷3』と『×1/3』が同じ操作を要求されている」
ということを知らなかったようで、その辺りからの説明でした。


小学校の算数で、「分数」は確かに鬼門でしょうね。
イメージしにくいと言うか、イメージがきちんとするまで「視覚化」出来ていない感じでした。


小学校の時に、具象的な数字を使っての練習(=遊び)をしっかりしていないと、
中学に入っていきなり文字式で、

「文字でかける」とか、

「文字で割る」とか、

そういうことが、「何をしているのか、わからない」という風になりがちです。



だからと言って、「計算問題」を沢山すれば良いというわけではありません。

事実、この子達も「計算問題」だけは、沢山やってきた子たちなのですから。



お母さんも言われていましたが、
「小学校のときは、80点以下を取ったことなどなかった」
そうなのです。


大切なのは、

「じっくりと考えること」

「じっくりと楽しむこと」

です。

特に、小学生の時分に、時間を忘れるほどに
没頭する経験をすることは、本当に大切です。

それが「勉強」であれば、良いのですけどね。笑



昨日の授業で、「どういう意味か」ということは
大分意味が分かってきたようでしたので、
もう少しだけ練習をさせていこうかと思っています。






一方の小6の授業。

今回は時間を取って、こんな問題を考えてもらいました。




「○○○ △△ =170
 ○○○○ △ =160

 ○=?  △=?」




あれやこれや色々と考えてくれました。

A4の紙を3枚くらい使ったでしょうか。(笑)



20分くらいしたところで、
「ちょっと休憩する?」
と言っても、
「いや~! もうちょっとで解けそう!」
とずっと集中していました。(笑)


30分くらいしたところで、
「あぁあぁあぁあああ!! そうか!」
と気づいてくれました。(笑)

素晴らしく良い笑顔でした。



今日の感想に、

「今日はすっごく頭を使った感じがする。疲れたけど楽しかった!」

と書いてくれました。



こういう感覚が毎回あると、勉強も楽しくなるのかもしれません。



そして、見る人が見れば分かりますが、
この問題は連立方程式の問題にもなります。


3x+2y=170
4x+y=160


という風な式にも、書こうと思えば書けます。


しかし、その式が上記の○△の絵図に描き直せる生徒は、
逆に何人くらいいるでしょうね。



「連立方程式の解き方」を教えることは簡単です。

しかし、その原理を自分で気づいて、解き方を考えること。
これは、今までの知識をフル動員してかからなければできません。


その経験こそが「宝」なのだと思います。


そういう練習をしている時期なので、スピードであおってはいけないと思うのです。

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2010/09/30 15:59 | 未分類COMMENT(0)TRACKBACK(0)  TOP

今度の日曜、10月3日は

みなさま、こんにちは。

今度の日曜10月3日は、
アッシジの聖フランチェスコが帰幽された日とされています。


アメリカのサンフランシスコや、ブラジルのサンフランシスコ川など、
地名にも残るほどの素晴らしい方です。

(サンフランシスコ→セイント・フランチェスコからでしょうね)


織物商人のピエトロ・ディ・ベルナルドーネの息子として生まれ、
家が裕福だったので放蕩生活をおくっていたそうです。

当時は騎士に憧れていたようですが、
実際のペルージャ戦いに参加して捕虜となり、
また病気に罹る等したときに、回心が始まったそうです。


時にフランチェスコ25歳でした。



27歳でキリスト教徒として、活動を始めました。

彼の記した戒律は全ての財産を放棄して、福音を説くものでした。



1226年10月3日、聖フランチェスコは45歳でその現世での生涯を終えますが、
亡くなるときに、

「私が纏っている布も、取ってくれ。
死んだら、埋めて身体も土に返してくれ。」

と、何一つ「所有」という概念に囚われることはなかったそうです。



しかし、考えてみれば、人間が自分の持ち物と考えているものでも、
何一つとして「無」から作り上げているものはありません。


そう、全て「地球からの借り物」です。



着ている布は、植物からですし、植物も地球が支えてくれなければ育ちません。
土地も、人間が勝手にルールを作って、線引きをしているだけですよね。


今、月の土地を買っている人がいるのはご存知ですか?

「遊び」としては良いかも知れませんが、実際のところ、
「何やってんだろう?」
という人の方が多いと思います。


それが証拠に、

「月の土地にも固定資産税を掛ける。年間1㎡辺り10万円です。」

と国連辺りが発表したら、
権利を放棄する人がどれだけいるか想像してみれば分かります。(笑)





死んだ時に何一つ持って逝けるものはありません。

ナザレのイエスさんも、
「地上の住人となるな。地上の旅人であれ。」
という言葉を残しました。


旅に出て、いつもの生活と何ら変わらないものを食べて、
何ら変わらないものを見て帰る人は、殆ど居ないでしょう。


或いは、折角旅に出ているのに、ホテルの中に引きこもっているのも
勿体無いですよね。


旅に出たら、普段とは違う、何か特別な事をしたい。

特別な物を見たい。

特別な物を感じたい。


そう思うのは、至極当然だと思います。

転んで鼻血を出したことだって、後で思えば良い思い出ですよね。

もし、現世に生まれるということが、
そういう「旅」だとしたらどうでしょうか。


モノとしての「お土産」は持って帰れませんよ、
という条件の旅だとしたら。



そしたら、多分1つでも多くのものを
見たり、聞いたり、感じたり、味わったりする人が大半でしょうね。



そういう思いで毎日を生きると、
また違ったことに目が向けられるかもしれません。


「モノ」ではなく、沢山の心に蓄えられた感動、
そして、そこに込められた「思い」こそが大切なのだと思います。


最後に、聖フランチェスコの精神を良く表していると言われる、
『平和の祈り』を記しておきたいと思います。





わたしを平和の道具とさせてください。


憎しみのあるところに愛を、
諍いのあるところに赦しを、
分裂のあるところに一致を、
誤りのあるところに真理を、
疑いのあるところに信仰を、
絶望のあるところに希望を、
闇のあるところに光を、
悲しみのあるところには喜びを
もたらすものとしてください。

慰められるよりも慰めることを、
理解されるよりも理解することを、
愛されるよりも愛することを
  わたしが求めますように。

わたしたちは、与えるから与えられ、
赦すから、赦され、
自分を捨てて死に、
永遠の命を受けるのですから。

2010/09/28 09:12 | 未分類COMMENT(0)TRACKBACK(0)  TOP

苦しいときは

皆さま、こんにちは。

晴佐久昌英さんという方の詩を1つご紹介させてください。




苦しいときは



苦しいときは 昔を思い出すといいよ

自分が生まれた日

はじめて母のふところに抱かれてやすらいだ朝を

わが子に人生を与えた親の思いを

思い出すといいよ


悩みなく遊びまわった幼いころ

ころんでもころんでも世界を信じて

傷が治らないうちにまた走りだした夏休みを

思い出すといいよ


夢破れて死のうとさえ思ったあの夜を

もう二度と朝は来ないと思っていたのに

やがて魂に忍び込んできたあの夜明けの美しさを





苦しいときは 明日を夢見るといいよ

いつかすべてを月日が洗い清めて

こころにひとかけらのけがれも痛みもなく

晴れわたった雪山の青空のようになれる日を

夢見るといいよ


苦しみ抜いた末に優しさのちからを知り

苦しむ人の気持ちが痛いほど分かるようになり

涙にくれるだれかの隣りにそっと寄り添える日を

夢見るといいよ


苦しみはいつか喜びにかわると身をもって知り

あの最もつらかった一日こそが

最もありがたい一日だったと感謝できる日を





それでも苦しいときは もう何もしなくていいよ

歩けないなら歩かなくていいよ

弱ったその身そのままで黙って座っていていいよ

冬眠に入った天道虫のように小さく丸くなって

何もしなくていいよ

今日も揺れ騒ぐ波の底に貝は眠り

風わたる樹々をおおい星空はめぐる

人はすべてのいのちと結ばれているから

何もしなくていいよ

一粒の苦しみも見逃さない天使たちに囲まれて

誕生への深き眠りに落ちていこう

あらゆる苦しみは生みの苦しみなのだから




晴佐久昌英 著 : だいじょうぶだよ : 女子パウロ会



人は、知れば知るほどに、勉強をすればするほどに、
「分からないところ」が増えていくものです。


それは常に、「わからないところ」というものが、
「わかるところ」の周りにあるからです。

ということは、「分かるところ」が増えれば、
「分からないところ」も増えていきます。


風船の表面積みたいなものでしょうね。



そして、その関係は、「苦しさ」と「優しさ」
の関係も同じなのかもしれません。



「苦しさ」の周りに「優しさ」がある。

同病相哀れむ、と言う言葉があるように、
同じ苦しみを味わっている人とは理解し合える気がします。


そして、お互いにいたわり合えるのだと思います。

2010/09/24 23:31 | 未分類COMMENT(0)TRACKBACK(0)  TOP

「答えのない問題」

みなさま、こんにちは。


先日も自習に来ていた女子2人。

「なぁ、センセ!
ちょっとこの問題教えて~。」

どれどれ、とのぞいて見ると、国語の文章問題!(笑)

「あ、ちょっと時間くれる?
センセも読まないと分からんから。


あ~、これはね~・・・。」

等と指導をしておりますが、その間、彼女達がよく使う言葉は、

「答えがわからん」

ということです。



逆に言えば、「答え」を出す事が、今の教育方法が子ども達に求めていることなのでしょう。


答えを出せる人が「出来る人」で、答えを出せない人が「出来ない人」。


そんな窮屈な二元論の世界に子ども達を押し込めておいて、高校になる前に、
「さぁ、これから自分の進路は自分で決めなさい。」
なんて急に言われても、面食らいますよね?(笑)



答えを出せば、ある程度、心を落ち着かせる事ができるのは事実です。

しかし、だからと言って、人生の目的が「落ち着くこと」だと思うのは、早計だと思うのです。



私は、敢えて『答え』を出さない事の方が、大切なのではないかと思います。

そもそも、『答え』とは何か、ということです。




「世界で一番美味しい料理は何か?」


という問題に、明快な答えを出すことはできません。

しかし、そもそも、何故そのような問題に答えなければならないのか、という答えもありません。


オリンピックや世界陸上で行われている100メートル走も、「現時点で」の話はできますが、記録が更新される限り、
「世界で最も速く100メートルを走れる人」
の答えは出ませんよね。


そもそも社会全体に「答え」がないのに、学校で「答え」を求めさせる教育をするのも、根本的に目的が違うような気がします。


学校では社会性を育む事が求められているのであれば、大切なのは、考え方の多様性を認めることだと思います。


「自分(だけ)が正しい」ということではなく、相手の意見や考えに対しても、「そういう見方もあるよね」と思えること。


そして、1つの事実に対しても、一方的な解釈だけでなく、相手の側からも考えてみること。





日本には、馴染みのないアメリカの習慣に、「Thanksgiving Day」があります。
「感謝祭」と訳されて、11月の第4木曜にお祝いをしています。


その起源としては、1620年12月26日に、イギリスの清教徒団"ピルグリム・ファーザーズ"が、イギリス教会の宗教弾圧を逃れ"メイフラワー号"でアメリカのマサチューセッツ州プリマスに到着したことからです。


上陸した年の冬は寒さがとても厳しく、さまざまな困難にも見舞われ、上陸当時100人程いた清教徒のほとんどが寒さや飢え、そして病気などによって命を落としました。彼らは、地元の「原住民」ワンパノグ族の酋長マサソイトに食料を与えられ、何とかその冬を越すことができたそうですが、生き残ったのはたったの50人位だったと伝えられています。



生き残った人たちは、先住民であるネイティブ・アメリカン(インディアン)に狩猟や農耕を教わり、春夏一生懸命働き、結果として秋には収穫できる作物もありました。


そして、その収穫時には、彼らが作った教会に集い、会食を催して収穫を喜び、神に感謝を捧げたそうです。


この席に、入植者の恩人であるインディアン達も招かれました。



インディアン達は、お礼に七面鳥や鹿の肉を持って来ました。

そして、清教徒の一団とインディアンたちは、3日間戸外のテーブルに食物を山と積んで、神に感謝を捧げ、讃美歌を歌ったのです。



これが一般的に言われる『Thanksgiving Day』の起源というわけです。



しかし、この話には続きがあるそうです。



七面鳥で元気になった清教徒らは、マサソイト曾長の死ぬのを待って彼らの領土を奪い始めます。


抵抗した息子は殺され、その首は20年間プリマスの港に晒されました。

彼の妻子と一族も、まとめてカリブの奴隷商人に叩き売られたそうです。


土地を手に入れた清教徒たちは、働き手と「妻」を最寄りの奴隷市場に買いに行きました。

実は、奴隷市場はメイフラワー号が着く一年前に店開きしていて、最初の売り物は140人の英国の白人女囚だったという記録が残っているそうです。


新大陸は、まず「神に仕える」男たちが入植し、ある程度の生活基盤ができたので、次に必要なのはそれを発展させること。つまり子孫でした。


それで英政府は、万引き程度の罪でもみな『島流し』を宣告して、新大陸に送りこんだそうです。




もし、本当に「神に仕える」清教徒たちが、感謝祭に伝えられるような心根を持った人たちであれば、ウーンデッドニーのインディアンの大量虐殺の様なことは、起こらなかったでしょう。



別に、私はここでアメリカ人を非難しているわけではありません。


ですが、そういうことも、きちんと子ども達に教えた上で七面鳥を食べるなら、それでも良いと思います。


「私達のそう遠くない祖先の人たちは、こういうことをしてきたんだよ。

それについては、どう思う?」


それが、歴史を学ぶ理由です。

そこには、「答え」は必要ありません。




「考える」ということ。


そしてその結果、
「どういう自分でありたいのか」
ということを決めること。

それが目的のような気がします。

2010/09/14 15:57 | 未分類COMMENT(0)TRACKBACK(0)  TOP

生活の算数・数学

みなさま、こんにちは。


先日も、「今どきの子ども」を象徴するような出来事がありました。

中2の男の子なのですが、次の問題を

「どうやって解いたら良いのかわからない!!」

ということです。




「美味しい飴が8つあります。

お兄ちゃんと弟で分けますが、
じゃんけんで勝ったので、弟の方が4つ多くもらえます。

さて、何個と何個に分ければいいですか。」





その子が最初に式を立てたものは、こんな感じでした。



8÷2=4

4-4=0

4+4=8

答え:兄0個、弟8個




「ん?!
弟は4個だけお兄ちゃんより多くもらったら良いんだよ。

これだと、何個多いの?」



「え?
あ! 8個。」



「でしょ?(笑)
じゃあ、どうする?」



「え!?



ええぇ~!



えええええぇぇぇえええ~?!




これどうしたらいいん?


この問題って、解けるんですか?」




「ははは。(笑)

解けるよ!」




「ええ~!?

方程式は使います?」



「そんな難しいことしなくてもできるって!!」



そんな感じです。
その子は、先日のテストで70点くらいだったそうですよ。



算数や数学がドンドン生活から乖離している危険性を感じます。


また、それと同時に、その子の抱えている寂しさが、
ビシビシと心に伝わってくるようでした。



出来の良いお姉ちゃんと比べられること。

さぞ、今まで息苦しかったでしょうね。


「あのね、
勉強ができなくても、『不幸』とは言わないよ。

それに、勉強ができても、幸せになれるかどうかは分からない。



大切なのは、自分が何を楽しめるか、じゃないかな?」



そういうと、深くうなずいていました。

2010/09/08 22:51 | 未分類COMMENT(2)TRACKBACK(0)  TOP

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