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『願いは叶う』

みなさま、こんにちは。


ニューヨーク大学のリハビリテーションルームの壁に、
次のような言葉が刻まれているそうです。




   大きなことを成し遂げるために、力を与えてほしいと神に求めたのに

   謙虚さを学ぶようにと、弱さを授かった。


   より偉大なことが出来るようにと、健康を求めたのに、

   より良きことができるようにと、病弱をあたえられた。


   幸せになろうとして、富を求めたのに、

   賢明であるようにと、貧困をさずかった。


   世の人々の称賛を得ようとして、成功を求めたのに、

   得意にならないようにと、失敗をさずかった。



   求めたものは何一つあたえられなかったが、

   願いはすべて聞き届けられていた。


   私はあらゆる人の中で、

   もっとも豊かに祝福されていたのだ。




「願いは叶う」

そう思います。


「願いは叶わない」と思っている人は、
「願いは叶わないという願い」が叶っています。

だから、どちらにしても願いは叶っています。


であれば、どんな「願い」を持つのか。
それが「自分」を決めていくのだと思います。

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2010/08/28 00:49 | 未分類COMMENT(2)TRACKBACK(0)  TOP

お彼岸

みなさま、こんにちは。

お彼岸、いかがお過ごしでしたか?
天気もまずまず良いので、お出かけになる方も多いかもしれませんね。

私はまだ赤ちゃんが小さいので、お出かけは出来ませんでしたが、嫁の実家のお墓参りに行ってきました。


7歳の息子が、
「今日は、オレが般若心経を言うからな!」
と、いつの間にか覚えた般若心経をお墓の前で唱えてくれました。
嬉しい瞬間です。


般若心経を唱えてくれたことが嬉しいのではなく、
その心に嬉しく感じました。



しかし、お墓参りに来て、毎回驚かされるのは、そこのゴミの量です。

確かに、「自分」のお墓の周りだけはキレイにされている方が多いのですが、通り道やお墓とお墓との間にある溝のようなところには、お弁当ガラだとか、ビニール袋、紙コップ、などなど、本当に色んなゴミが捨ててあります。


以前、見るに見かねて、ゴミ袋を家から持ってきて、ゴミ拾いをしたことがありました。
私のその様子を息子が見ていて、
「父ちゃん、俺も手伝う~!」
と、隣でゴミを拾ってくれました。

15分ほどで、大きなゴミ袋いっぱいになった覚えがあります。


先日は、お墓参りの後、来客の約束がありましたので、時間を取ってゴミ拾いもできませんでしたが、ちょっと回りにあるゴミだけを拾っても、結構な量になりました。


誤解をされるかもしれませんが、私は、「お墓参り」に行ってゴミを増やすくらいなら、行かない方が良いと思います。

「自分のお墓だけがお花も飾ってあってキレイ。」
「自分だけは(だけで)良い。」

という考え方を死んだ人の立場で考えた時、
その人たちが本当に喜んでくれるでしょうか。


お墓参りは、お願いをしに行くところではありません。

「素敵な彼氏が欲しいです。」とか、
「宝くじを当ててください。」とか、
「受験で合格しますように。」とか、
「家庭の不和をなんとかしてください。」とか、
そういうことを言っても、何の解決にもならないと思います。

それはもし、自分が死んだとき、お墓で子どもや孫達がそういう話をされてもどうすることもできないことを考えれば分かると思います。


人が死んだら無になる、と思っている方は、それはそれで良いと思います。
でも、誤解してもらって困るのは、
「人は死んだら、すぐ仏になったりする」
ということを信じておられる方々です。

人は死んでもすぐ仏にはなれません。
もし、すぐ仏になるのであれば、折角この世に生きたことの意味がありません。



お墓参りの意味とは、
先祖への感謝と、「死」を思うことで「生」を改めて活かすことを考える場を提供すること、だと思います。


お墓参りに行かなかったからと行って、「先祖の祟り」などはありません。
自分の子どもをわざわざ「不幸」にしようと思う親が、どこにいるでしょうか。


しかも、その「親」とは、もうお金も必要ないですし、健康について気をつける必要もない。
時間も「死ぬほど」ある人たちです。(笑)

つまり、自分のことについて何も「必要」を感じない人(死者)を、生きている人たちが「自分」たちと同じような「必要性」のモノサシで考えることは、少々ムリがあります。


むかし、江原啓之さんが、
「霊とは、非科学でなく、未科学なのだ」
と言っていましたが、まさにその通りになっています。


筑波大学名誉教授の村上和雄博士は、高血圧の原因物質であるレニンの発見者として知られていますが、その村上先生の著書
『遺伝子オンで生きる』(サンマーク出版)
によると、アメリカでは現在、祈りの科学的研究が盛んに行なわれているそうです。

「たとえば、ハーバード大学、コロンビア大学、デューク大学などアメリカでも権威ある有名大学で、祈りの効果が研究されはじめ、すでに研究事例は一二〇〇を超えている。そして《精神神経免疫学》という新しい学問分野が開かれようとしている」
そうです。

日本でも、公立の大学で、「ヒーリング」が授業の単位として認められてきました。




「死」を考えることは、「生」を活かすことにつながります。





こんな詩もあります。



・・・・・・・・・・・・

生きるとは



人間において生きるとは、

ただ単に生き永らえる事ではない。

人間において生きるとは、何のためにこの命を使うか、

この命をどう生かすかということである。

命を生かすとは、何かに命をかけるということである。

だから生きるとは命をかけるということだ。

命の最高のよろこびは、

命をかけても惜しくない程の対象と出会うことにある。

その時こそ、命は最も充実した生のよろこびを味わい、

激しくも美しく燃え上がるのである。

君は何に命をかけるか。

君は何のためなら死ぬことができるか。

この問いに答えることが、生きるということであり、

この問いに答えることが、人生である。


芳村思風


・・・・・・・・・・・・・・・・・・


昔の日本人は、定期的に「死」を考える時期、時間を取ったのでしょうね。
だからこそ、「潔さ」を重視したのではないでしょうか。

日本人が好きな桜は、散り際がもっとも美しい。

その美的な感覚とは、生死感に根付くものだと思います。

2010/08/15 10:33 | 未分類COMMENT(0)TRACKBACK(0)  TOP

「落ち穂拾い」の奥深さ

みなさま、こんにちは。

ちょっと先ですが、
10月4日は、『晩鐘』、『種を蒔く人』
そして『落ち穂拾い』などの絵で有名なジャン=フランソワ・ミレーさんの誕生日です。


1814年にフランスのグリュシーという小さな村で生まれたミレーさんは、8人兄弟の長男。
19歳の時に絵の修行を始め、26歳の時にサロンに入選。
しかし、奨学金が停止されていたために、非常に貧しい生活を強いられていたそうです。


当時のエピソードとしては、本当にその日暮らしをしているような貧しい生活をしている時に、友人画家のルソーさんがやってきます。

「ミレー。
実は君の絵を300フランで買いたいという人がいるんだけど、
売ってくれるかな。」

当時は、1フラン当たり金322.58mgの価値をもつものと定められていました。
今、金1gは大体1500円くらいですから、1フランは大体500円くらいです。

とすると、300フランは15万円の計算になり、当時のミレーにとっては見たこともない大金だったに違いありません。

「そんな!
いいのかい、ボクの絵で。」

「ああ、君の絵が良いんだそうだ。」


その後、ミレーは共和国政府より依頼された仕事を受けたりして、経済的に安定していきます。
そして、その頃でしょうね。

貧しかった当時、あの時の自分を助けてくれた300フランを払っていたのは、誰でもないルソーさんその人だったことを知ります。

自分と同じくらいに貧しい画家であったルソーさんが、ミレーさんのプライドを傷つけないようにと配慮した救いの手でした。

それを知って、ミレーさんは号泣したと言います。


その後、ミレーさんは傑作といわれる「落ち穂拾い」を描き上げます。

この絵は、のどかな麦畑の刈り取りの後の、
のんびりとした風景を描いているのではありません。

当時のフランスは、1780年代からの45億ルーブルにも膨らむ財政赤字を抱えていました。
ルイ14世の対外戦争の浪費や、宮廷での贅沢三昧での浪費などが原因のようです。
第三市民には、もう増税しようがないほどに税金を課し、市民生活は苦しさを増すばかりでした。

その後、1789年7月14日にバスチーユ牢獄の襲撃を含め、所謂「フランス革命」の混乱時期に入ります。
その混乱時を超えて、ナポレオン時代を経て、さらに2月革命などが起こる。
まだまだ混乱の時代です。

もちろん、社会が疲弊すると困窮するのは、一般市民です。


ミレーの落ち穂拾いに描かれている3人の夫人は、全員戦争で夫を亡くした未亡人たち。
働き手を失った婦人達は、自分の仕事が終わった夕暮れ時に、近くの農園で生活のために必死に落ち穂を拾ったそうです。
それがあの絵の構図だそうです。


当時、フランスの農家では、麦の収穫はあの死神の鎌のような鎌で刈って、巨大なフォークのようなもので、麦束を集めて脱穀していたそうです。
だから、結構落ち穂があった。

それを集めることも、やろうと思えばできたのでしょうが、貧しい人たちのために残しておく事が、「当たり前」だったようです。

そういう社会的弱者を啄ばむ厳しさ。
疲弊した社会でも必死に生きていくことの気高さ。
そして、そんな社会でも忘れていない優しさ。

その3つが渾然と混ざり合いながらも、強烈にお互いを引き立てあうから、
あの絵は「傑作」として、今日まで残ったのだと思います。

1枚の絵の奥深さ。
すごいですよね。

2010/08/11 22:32 | 未分類COMMENT(0)TRACKBACK(0)  TOP

秋刀魚焼く 塩の加減も 上手い下手

みなさま、こんにちは。


今から10年ほど前になるかと思いますが、早朝のラジオから聞こえてきた1つのフレーズがあります。


「秋刀魚焼く 塩の加減も上手い下手 まして焼き方 その勧め方」


だったと思います。


秋刀魚を焼くときにする塩はホンの少し、一つまみほどです。

それでも、上手な人がすれば、絶妙な塩味となるし、下手な人がすれば、濃すぎたり薄すぎたりする。

そんな小さなことでも差ができるのであれば、それを「焼く」作業では、もっと差がつくでしょうし、ましてやその「勧め方」では、もっと差が出来るだろう。

ということです。

「この秋刀魚、冷凍なのよ。
ほら、身もグスグスでパサパサしているでしょ?
何これ、美味しくないわよね~。
あ~、残念。」

なんて、こちらが食べる前にそんなことを言われると、例え
「美味しそう!」
なんて思っていてても、気持ちがなえますよね?(笑)


例え冷凍の秋刀魚だとしても、

「ほら!
冷凍の秋刀魚だけど、こんなに美味しそうに焼けたわよ~!
皮がプチプチ弾けて、本当に美味しそう!
ほらほら、熱いうちに食べてね~!」

なんて言われると、同じものでも食欲が湧きます。


「モノは言い様」
と言いますが、本当にその通りだと思います。


「○○と××ができていないからダメ!」

ではなく、

「○○と××ができていたら、もっと良くなるんだけどな。」

というような言葉遣い。


誰かや何かを貶めたり、辱めたりすることではなく、
未来に目を向けさせることで、希望を抱かせるように意識させること。


同じ出来事でも、どちらに意識を向けるかで、受け取り方も変わってきます。

「なんで40点しか取れないの!」
という言い方もできれば、
「あと60点も伸ばせるんだったら、頑張りがいがあるよね?」
という言い方もできます。

どちらも、「子どもをやる気にさせたい」一心で出た言葉ですが、機能的に働く言葉はどちらでしょうか?

であれば、まず、ゴールから考えてみて、言葉を選ぶやり方もあります。


「秋刀魚焼く 塩の加減も上手い下手 まして焼き方 その勧め方」


(ちょっと文章の流れが、『料理の鉄人』っぽいですね。)(笑)

2010/08/01 16:28 | 未分類COMMENT(0)TRACKBACK(0)  TOP

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