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自立とは、必要としないこと

みなさま、こんにちは。


塾でもそうですが、教育の最終的な目標は何かと言えば、

「生徒を自立させること」

です。


「自立とは何か」と問われたら、私は、

「何かを必要とすることなしで生きていけるようにすること」

だと答えます。


今の教育、そして人に対して何かをアドバイスするようなお仕事、
或いは、ヒーラーやカウンセラー、占い師もそうでしょうが、
すべからくこの思いを抱いていないと、結局は失敗します。


(本当は「失敗」というものはありませんが、便宜上この言葉を使います。

「失敗」とは、「本来の機能を果たさない」という意味です。)



親も同様です。

親は、なるべく早く、この意識を持っておく方が良いと思います。

そのときに気をつけないといけないのは、
「育てられる側(子ども)」が、もう要らないと思うまで
「育てる側(親)」は与え続ける、
ということです。

それは、無条件であることが前提です。


十分に与えられた子どもは、悪く言えば「飽きて」きます。

良く言えば、それを「信じること」ができます。


そうすれば、また新しい「刺激」を求めて、
工夫をするなり、探検に出かけるでしょう。


それが「オリジナル」「自分らしさ」ということだと思います。
自分らしさを出せるようになると、それは「楽しみ」になります。
それが『生きるコツ』なのだと思います。



「自立する」とは、「必要としないこと」です。


いつまでも、誰かにやり方を聞かないと
何もできないのであれば、
それは自立しているとは言えません。


「先生がいなくても、生徒が問題が解けるようにすること」が、先生の仕事です。

「医者の必要を感じないほど健康にすること」がお医者さんの仕事です。

「親がいなくても、子どもが生きていけるようにすること」が、親の仕事です。




その同一線上に、「モノ」もあります。

沢山の「モノ」がなければ「幸せ」になれない人は、幸せから離れている人です。


豊かな人とは、沢山の物を持っている人でなく、
少ない物で満足できる人のことを言います。


所有の強迫観念の虜になっては、自分の人生を生きられません。

自分が主役なのか。
モノが主役なのか。


自分以外の誰かが自分の人生の主役にはなれません。



人は、どんな人でも10代元をたどれば1024人の先祖がいるそうです。

もし、その人たちが全員観客で、
「あなた」という人生の劇を見ているとしたら、
それはどんな「劇」になっているでしょうか。



その1024人全員が、
「ほらー、頑張ってー!」
「大丈夫、大丈夫。心配ないよ!」
「あなたは、私達の代表選手なんだから、それでOKなんだよー!」
「しっかりねー!」
「せっかくのチャンスなんだから、楽しんでねー!」

などという、大声援をいつも送ってくれているとしたら、どうでしょうか。


依存と共依存を一緒にしてはいけません。
必要と欲求は違います。

自分が社会でやりたいことをするために、
技術を探して身に付けることを勇気と言います。



親は子どもに勇気が出るように育てていくのだと思うのです。

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2010/06/29 17:33 | 未分類COMMENT(1)TRACKBACK(0)  TOP

パワースポットとスピリチュアル

みなさん、こんにちは。


さて、過剰気味ともいえる「パワースポットブーム」です。

年に何回かしか会わないような友人にお願いごとをされたら、
絶対に聞かないような人が、パワースポットに行ってお願いごとをし、
挙句に、「効果」が得られなかったら、
「あそこってたいしたことないよ!」
なんて仰るのは、本当にどうかと思います。


そもそも、パワースポットとは、

「現世の雑音の少ないところ」

なのですから、そこでは自分と向き合う時間を取るのが
正解なのです。


お願いごとをしても、聞きません。
そもそも、「神様」は取引をしないのですね。



そして、「スピリチュアル」とは、人生の指針の1つです。

スピリチュアルの言葉通り、
思想の根幹は「スピリット=たましい=霊」ということ。

つまり、人間の本質は「たましい」であり、肉体が死んでも「たましい」は死なない。

そう考えた上で、「現世」をどう生きるのか。
ということを、考える(=哲学する)ことがスピリチュアルの本質です。

ですから、思想や哲学の範疇なので、
他人に押し付ける必要もなければ、恐怖でもって人を操る必要もない。



人生に疑問を感じた人、

「なんで、自分の人生はこうも不幸ばかりが続くのか。」とか、

「どうして、私にはいわれのない災難ばかりが降り注いでくるのか。」とか、

「どうして死ぬのに、人は生きていかなければならないのか。」とか、

そういう人たちが、「理由」を求める一助を務めるのが哲学であり、
その1つがスピリチュアリズムであると思うのです。



ユングやフロイト、ハイデガーやウィトゲンシュタインが
「宗教」でないのと同様に、スピリチュアルも「宗教」ではありません。

ただ、残念なことに今は、色々なものと十把一絡げにされているのも事実ではあります。


しかし、例えば自称ユング派の哲学者から、

「あなたの関与する集合的無意識を改善するために、
この水晶を買いなさい。」

なんて言われても、普通、
「は?」
ですよね?(笑)


フロイト派の人が、
「あなたのリビドーを活性化す
るためには、この壷が必要です。
買わないと、不幸になりますよ。」

なんて押し付けても、一般の人には、

「何言ってんだ、この人。単なるスケベ親父か?」
で終わってしまいます。(笑)


それがなぜか、スピリチュアルだと、

やれパワーストーンだの、
護符がどうの、
占いがどうとか、
鯉の滝登りストラップや、
黄色い財布や赤富士等、
という話と一緒にされてしまう。



全く関係ありません!!



「霊なんていない」
と思っていらっしゃる方は、
それはそれで良いと思います。
「霊はいるんです!」

なんて、別に目くじら立てて言う必要もありません。

ただ、本当に「霊がいない」と思っていらっしゃるのであれば、
そういう方々には、神社に行くことも無意味でしょうし、
ましてお墓なんてナンセンスでしょう。


全国各地にある、
「壊そうとしたり、移転させようとしたら、
なぜかその人が病気になったり、いなくなったりする。」

という「いわれ」のある工事をそういう方々に
依頼してみても良いかもしれません。(笑)



子どもやお孫さんが初めて描いてくれた、自分の似顔絵にも、

「なんだ、このヘタクソな絵は!
描くなら、もっとゴッホやルノワールのように高く売れるような絵を描きなさい。
こんな絵では、私は受け取れない。」

と言える方々なのでしょう。
そういう方々は、価値とは「経済価値」なのでしょうから。


末期のガンで入院して、もう余命幾ばくもないという状態のお母さんが、
一時退院が許され、
本当にこれが、家族のために作ることのできる最後の食事になるだろうと、
思って出したご飯に、

「なに、このマズイご飯。
ありえんし!

こんなんだったら、まだファミレスの方がマシ~!」

と言える息子や娘なのだと思います。


だからと言って、別に、私はその人たちを責めません。
その人の知識の限界が、その人を定義づけます。


広い目で見れば、
「誰も自分が悪い事をしている」
とは思っていないのです。

誰かを殺すことだって、脱税をして裏金を貯めていくことだって、
本人にしてみれば、結局「自分は正しい」と思ってしていることです。



早期教育で子どもを追い込んで、
結局子どもがウツになってしまったような場合であっても、
母親は少なくともそれを「良かれ」と思ってやっていたことです。


つまり、「性悪説」というのはありえない、ということです。


しかし、今まで自分が「正しい」と思っていたことが、
「何か、違うんじゃないか?」
と思ったところから、考え始めます。

そこから哲学が始まるのです。


それをお手軽にグッズや占いや加持祈祷の類で解決するようでは、
折角の「考える」機会を奪ってしまいます。
主体性がなくなっていくのです。


今、スピリチュアルを「ブーム」にしてしまっているのは、
残念ながらそういう方々です。

依存心を助長するやり方は、哲学ではありません。
依存心とは、それによって自分の可能性を狭められることです。



『あなたは何か』


この問いが、人生の最初にして最後の問いです。
この問いに、毎時間、毎分、毎秒、答えを出しています。


その答えの出し方も、いつも誰かや何かのせいにして、
「自分は悪くない」という風に、被害者の立場に立つやり方もあるでしょう。


けれども、それを自分でコントロールするというやり方もできるのです。


いつも誰かや何かに不平不満を言い続ける事もできますが、

「よし、この状況を自分の思うように変えてみよう。」
と思うこともできます。

他人が作った料理にブツブツ文句を言うくらいなら、
いっそ自分で料理してしまうという手もある、ということです。


その選択を自分でする、ということ。


その上で、
「現世とは、たましいの旅であり、死んだ後は何も持って帰ることができない。

持って帰れるのは、心に蓄積できた『経験と感動』だけ。

だから、心からこの世を楽しもう。

色々な経験と感動を味わおう。」



そういう考え方、そういう人生哲学が本当の意味でのスピリチュアルです。

「モノ」が目的ではない。
大切なのは、感じるという「心」。



お茶1つにしても、

「今日、あなたがいらっしゃると思って、
ちょっと遠くのお茶屋さんまで行って、分けて頂いたんですよ。

そこで、美味しいお茶の入れ方も教えて頂いて、
お出ししてみましたが、いかがですか?」

と出されることと、

「人の家に来るのに、お茶くらい自分で持って来るのが常識だろう!
人の手を煩わせるな! ばかもの!」
と言われること。

どちらが嬉しいでしょうか。


そういう心を大切にする、
という生き方がスピリチュアルということだと思います。

「虎は死して皮を残し、人は死して名を残す」


スピリチュアリズムは人の生き方を残します。

だから、頭でっかちに理論をあれこれ詰め込むよりも、
「実践」を重んじる「哲学」なのです。

2010/06/28 15:57 | 未分類COMMENT(3)TRACKBACK(0)  TOP

「潔さ」

みなさん、こんにちは。

先日、何の話からだったか、アンディ・フグさんの話題になりました。


アンディさんと言えば、言わずと知れた「K-1ファイター」で、
当時の少年ジャンプにもよく登場されていましたし、
「ごーめんなさいよ、ごーめんなさいよ!」
と言うCMからの言葉は、一時期流行語にもなりましたね。(笑)

ご自身のトレードマークでもある「かかと落とし」は、
見る者全てを圧倒するような迫力がありました。

とりあえず、みんな、マネをしてみるのだけど、
すぐに無理だと分かってやめる、みたいな流れがありましたよね。(笑)



そのアンディさん、2000年の8月24日に急性白血病でお亡くなりに
なりましたが、なんとその前日まで、空手仲間で親友であった
角田信朗さんにも、内緒にしておられたそうです。


生き方が「サムライ」でした。


「サムライ」とは、一言で言って、「潔さ」でしょうね。



日本人が「バラ」よりも「桜」が好きなのは、
その散り際の潔さに自分の美学を重ねているからかもしれません。

そのアンディさんをとてもよく表しているエピソードが
ウィキにありますので、ご紹介したいと思います。





1999年3月5日放送の探偵!ナイトスクープにて。



「世界最強!?徳田流格闘術」の回に出演。



自己流の格闘技を身につけたという依頼者(高校生くらい)と、
その弟からの「徳田流格闘術を披露したい。


本気を出せば格闘技経験者にも勝てると思っている。」
との依頼。



しかし、本人には本式の格闘技の経験がなく、
蹴り技を一つ放つにしても後頭部を床に打ちそうになったりで、
探偵リポーターや会場からは失笑が漏れていた。



アンディは番組後半に依頼者とその弟のスパーリング相手として登場。

アンディの軽い足払いで依頼者は一回転近く体を回され転がされるなど、
当然手も足も出ず、最後はボディにパンチを受けうずくまってしまい
続行不能という結果に。



もちろんアンディは100% の力は出してはいなかったが、
スパーリング中の目は真剣そのものだった。



さらに、兄がパンチを受けて続行不能になったときに、
弟はヘッドギアもつけずにアンディに立ち向かっていった。


会場では爆笑が起こっていたが、そこに居合わせた探偵を含め
撮影班は思わずその弟の健気さに涙していたというエピソードもある。


スパーリング後、アンディは依頼者の少年の目をしっかりと見つめ、
こう言った。


「自己流で格闘技を行い『自分は強い』と言う君を
世間の人は笑うかもしれない。


しかし私は決して君の事を笑わない。


なぜなら私も少年の頃、

「空手の世界チャンピオンになる」と言って皆に笑われた。


しかし私は、K-1のチャンピオンになった。


誰でもチャンピオンになれる可能性がある。

だから私は手を抜かず、
真剣に君のスパーリングパートナーを務めた。


私は君を笑わない。」



ちなみに、その時のレフェリーは角田信朗。


なお、この回はアンディが死去した直後に
多くの視聴者から再放送の要望があり、
追悼の意を込めて後日改めて放送されている。




一部追加をしましたが、このような潔さが、
皆さんに好かれたのではないかと思います。







どんなに「良い」と思っても、もっと良いことがある。

自分の神学やイデオロギー、宇宙観がどんなにすばらしくても、
もっとすばらしくなれる。

シェイクスピアが言うように、

「天と地の間には、おまえの哲学では及びもつかないことがある」のだから。



だから、開かれていなさい。

オープンでいなさい。

古い真実が心地よいからといって、
新しい真実の可能性を閉め出してはいけない。

心地よさのゾーンが終わるところから、人生が始まる。



だが、性急にひとを批判しないこと。

ひとの「間違い」は、昨日のあなたの「正義」だ。

ひとの過ちは、いまは訂正した昨日のあなたの行動だ。

ひとの選択と決定が「有害」で「他人を傷つけ」、
「自分勝手」で、「許しがたい」としても、
いままでのあなた自身もそうだったのだ。


どうしてそんなことをするのか、想像もできない」と思うのは、
自分が来た道を、
そしてお互いがこれから行く道を
忘れているからだ。


それから、
自分は邪悪だ、
価値がない、
取り返しがつかない
と思っているひとたちに言っておこう。

いつまでも迷っている者は誰もいないし、
これからも決していない。

全員が成長のプロセスにいるからだ。

あなたがた全員が進化という経験のなかを進んでいる。




【神との対話(3)】より抜粋

2010/06/23 00:10 | 未分類COMMENT(0)TRACKBACK(0)  TOP

「私は夢をみた」

みなさま、こんにちは。


先日の中間テストで、K君が英語で89点を取りました!

いつもは、60点をうろうろしている子です。

そして、1年前は20点台だった子です。
本当におめでとう!



さて、今日は、私の好きな詩を1つご紹介させて頂きたいと思います。

キリスト教系の詩ですが、「主」という存在は、
そのまま、自分を見守ってくれている愛情、
そのものだと思って良いと思います。


今、「闇」の真っ只中にいらっしゃる方、
苦しみのさなかにいらっしゃる方、
そんな方々の心に響いてくだされば幸いです。





『わたしは夢を見た』


ある夜、私はひとつの夢を見た。

わたしは主とともに渚を歩いていた。


暗い空をよぎって、わたしのこれまでの人生の切れぎれの断片が閃いた。


見ると、どの場面にも、二組の足あとが砂の上についている。 

ひとつは自分の、もうひとつは主の足あとだった。

わたしの人生の最後の場面がわたしの目の前に表れた時、
わたしは砂の上に残る足あとを振り返って見た。


あるのはただ、一組の足あとだけだった。





これはわたしの生涯の中で、
落胆と最もかなしい時であったことに気が付いた。


この一事がわたしのこころをいつも悩ませたので、
この矛盾について主に問うた。



「主よ。


わたしがあなたに従うと心に決めたとき
あなたはわたしと共に歩み
語らいをつづけようと言われました。


しかし、
わたしの生涯の中で最も苦しかったとき、
あるのはただ、一組の足あとであることをわたしは知っています。



わたしがあなたを一番必要としたとき、
なぜ、あなたがわたしを独り置き去りにするのか
その理由がどうしてもわからないのです。」




主は、優しく微笑んで言われた。


「わたしの大切この上ない子よ。

わたしはおまえを愛している。


おまえが試練の中に置かれている最中、
おまえを独りにしておくなど絶対にしない。



おまえが一組の足あとしか見なかったのは、

そのとき、わたしがおまえを背負っていたからなのだよ。」




マーガレット・フィッシュバック・パワーズ 作   
尾崎 安 訳(一部改訳)




私自身も、何度も
「もうダメかもしれない」
という思いをしてきました。

いっそ、ここで死ねたら、どんなに「楽」だろうか。
と考えた事も1度や2度ではありませんでした。


しかし、今も生きています。
生かされています。


苦しみや悲しみは、人を孤独にします。
夜の闇は、寂しさを募らせます。


しかし、そういう時だからこそ、
余計に「小さな光」でも、明るく感じるのでしょう。

誰かの何気ない一言が、心に染みるのも、
孤独な夜だからなのかもしれません。


明かりの着いた部屋では、小さなロウソクの明かりは、
どこにあるのか分かりません。

真っ暗な部屋では、小さなロウソクの明かりでさえも、
どこにいても分かります。


何かの「ありがたみ」は、
「ない」という状況の中でしか、分からないのかもしれません。


今の、世界情勢も、ある意味では「ない」という状況のなかで、
「ある」ことへの「ありがたみ」を感じられる、
またとないチャンスなのかもしれませんね。

2010/06/17 15:40 | 未分類COMMENT(0)TRACKBACK(0)  TOP

『天国の門』

男は愛犬を連れて長旅に出ていた。


しかし砂漠の真ん中で心臓発作に襲われ、

男はそのまま死んでしまった。




         *


再び目覚めたのは暗闇。


そばで愛犬が見つめていた。

男はちゃんと気づいていた。

自分が死んだこと。

そして死んだ自分に何日も寄り添って、

愛犬が息を引き取ったことを。



犬と一緒に暗闇を歩き出すと、

やがて、まばゆい光の門が、目の前に現れた。


奥には金銀に輝く、巨大な城が見える。



男は門番に尋ねた。


「すみません、ここは何処なんですか?

この門はいったい?」


門番は厳かに答えた。


「ここは天国です。」




「おお、ここが天国!


感激だ!!

僕は天国に導かれたのか。

ところで、のどが乾いてしょうがないんですが、

水を1杯いただけますか。」


男は待ちきれず、そうたずねた。



門番は言った。

「どうぞ、どうぞ。

城の中によく冷えたミネラルウォーターがあります。


ごちそうも、食べたいだけ食べて頂いて結構です。」




「さすが天国! ありがとうございます!」




男が愛犬を連れて入ろうとすると、

門番は急に態度を変えた。


「ちょっと待った!

ペットはここより中には入れません!!」


門番は大きく手を広げ、男を制止した。




「え...!」




男は立ち止まり、愛犬を見た。

愛犬はいつもと変わらず、無垢な目で男を見ていた。

男は、愛犬を置いて

自分だけが天国の門を入るのをためらった。






しばらく悩んだが、

自分に寄り添って死んでくれた愛犬を、

孤独な夜に温もりを与えてくれた親友とも言うべきこの愛犬を、

門の外に置いていくわけにはいかない。




結局、男は門に入らず、犬とともに、光の門を後にした。







再び暗闇を歩いていると、

今度は古ぼけてガタガタの、木で出来た小さな門が見えた。



そばに門番だろうか、本を読んでる人がいる。





「すみませんが、水を1杯いただけますか?」



門番らしき男は、本から顔を上げ、微笑みながらこう言った。



「中に手押しポンプがあるから、それで飲むといいよ。」



男は続けて、少しためらいながら、こうたずねた。




「それであのう...。

犬を連れて入ってもいいでしょうか?」




門番は笑顔で答えた。



「もちろん!」






「ありがとう!」





男は犬といっしょに門を入り、

ポンプで水をくみ上げて、犬と一緒に心ゆくまで水を飲んだ。





「水をどうもありがとう。

ところで、ここはどこなんですか?」






門番らしき男は、微笑んで言った。






「天国だよ」






「え! 天国?! 

でも、この向こうの、光の門の中が天国だと...」




男は、戸惑いを隠せなかった。


門番らしき男は、微笑を絶やさずにこう続けた。




「ああ、あれは地獄だよ」





「え! 地獄が勝手に天国を名乗ってるんですか?


怒らなくてもいいんですか?」




門番らしい男は、ゆっくりと答えた。





「いっこうにかまわんさ。 


おかげで、親友を置いていくような人間かどうかを、

見分けられるんだから」



(「アメリカンジョーク」より)

2010/06/14 17:07 | 未分類COMMENT(0)TRACKBACK(0)  TOP

子供だけの問題じゃない

今の子どもの問題は、子どもだけの問題じゃない。


もう、社会全体の問題だ。

だから、「子どもだけをどうにかしよう」なんていう
対処療法を打ち出したところで、見当違いの解決法になってしまう。


戦後の価値観を引きずるのは、もう止めにしなければならない。



戦後の何もなかった時代。

物があることが幸せだった。

それは、『家族が一緒にいる』ということが、当たり前だった時代の話だ。


夕方になれば、お父さんが帰ってきて、
一緒に夕餉のちゃぶ台を囲む。


ご飯が終わったら、みんなで
トランプをしたり、
花札をしたり、
大声で笑いあったり、
時々、怒られたり、笑
でも、そういう時間の中で
「家族」という絆を育んでいた。


冷蔵庫があれば、それが幸せ。

テレビが家にくれば、それが幸せ。

洗濯機がくれば、それが幸せ。


そんな時代は、親子の触れ合いが自然にあり、
時代のスピードが今とは比べ物にならないくらい緩やかだった。



現代は、物が溢れてしまった。
文明だけが先に進み、人の心を置き去りにしていった。


人と人の触れ合いよりも、
ゆっくりと話しながら、お互いを理解することよりも、
家族で一緒にご飯を食べることよりも、

お金を稼ぐこと。

それが幸せになれる道だと教えられてきた。


世間的にいう「良い子」とは、
親の言うことをちゃんと聞く子であったり、
勉強を自分からする子であったり、
どちらにしても、「親の期待」に応える子に限定される。


しかし、親と子は、心が違う。

魂が違う。


だから、例え自分の産んだ子であっても、
性質は全く違うこともある。

自分が育てられたように育てても、
自分のように育つ保証もない。

また、もっと深刻なのは、親が自分に無価値感を抱いている場合だ。


子どもは、お母さんが大好きだ。
お父さんも大好きだ。

それは無条件なのだ。

なのに、親が自分のことを価値がないと思っていたなら、
子どもは、価値のないものを愛しているという考えを
親から押し付けられる。

しかも、そういう親御さんは、本当は心から愛して欲しい気持ちが
根底にはあるから、矛盾した2つのメッセージを同時に発している。
だから、子どもは混乱するのだ。


価値があるとか、価値がないとか、
そんな考え方は、「幻想」だ。


「死」に直面したときに、
人は何が一番大切なのかを痛切に知る。



子どもが事故に遭って死にそうだというときに、
何を思うのか。


自分の寿命があと1ヶ月だと言われたときに、
どう生きるのか。



ボクは「幸い」に、何度も死のうと思ってきた。
そして、今がある。

この命は、ボクの命であっても、もうボクの命でない。


毎朝、仕事に出かけるときに、子どものケンゴとアイリの頭をなでる。

「今日、これで会えなくなっても、元気で生きていくんだよ。」
という思いを込めて。


毎晩、寝掛けに嫁の頭をそっと撫でる。

「今日も一緒に生きてくれて、ありがとう」という思いを込めて。


その一瞬が、ボクにとっては、「生きる価値」そのものだ。

お金がいくらあっても、その瞬間は買えない。


そういう経験と感動、そして、人生を彩る全ての瞬間が、「価値」そのものだ。

聖なる一瞬だ。
神が与えた時間だ。


今、こうして生きていること自体が、「奇跡」なのだ。


子どもと出会えたことも、
友達と出会えたことも、
愛すべき人に出会えたことも、

腕時計をネジの1本までバラバラに外して、海の中に放り込んで、
自然の営みの中で、「偶然」に腕時計に再び組みあがるくらいの
「奇跡」なのだ。

あなたがここにいるということは。

ボクが、あなたの向かいにいるということは。


そんな、奇跡の塊のような「魂」を、
高々100年ほどの価値観で縛り付けるなんて、
モッタイナイ!


大海の一滴でも、
大河のはじめの一滴になるかもしれない。


子どもを子どもらしく育む教育を
続けていきたいと思う。

2010/06/13 22:27 | 未分類COMMENT(0)TRACKBACK(0)  TOP

安心感

先ほど、1歳のアイリを寝かしつけてきました。


1階に寝ているアイリを抱っこして、2階の寝室へ。

布団に降ろした瞬間、パッと目を開けるアイリ。

一瞬、
「あれ?」
という表情をする。

ボクは思わず笑顔になって、
「大丈夫だよ。」
と髪をなでる。

アイリも微笑む。

横向きになって、僕が投げ出してる左腕に頭をのせる。

そして、小さな両手で心配そうに僕のパジャマの袖を握っている。




「どこにも行かないよ。



たとえ、父ちゃんが何かの理由で、死んだとしても、
もう、アイリが良いって言うまで、こうして毎晩、
アイリの傍で寝てあげるからね。

だから、大丈夫。

大丈夫。」


そっと呟きながら、肩をトントンと叩く。


アイリがまた急に目を開ける。

そして、アイリを見ている僕と目が合う。


アイリが微笑む。

僕も微笑む。


そして、安心したように、反対側に寝返りを打って
寝てしまった。




時間にしたら、ほんの5分ほどのことだろう。


でも、この5分を
父ちゃんは一生忘れないよ。

2010/06/06 00:04 | 未分類COMMENT(0)TRACKBACK(0)  TOP

心の汗

心が動くと汗をかく。

その汗のことを「涙」と呼ぶ人もいる。


最近は、この曲を夜中に聴いて
涙を流していることが
多い私なのです。笑









そして、「調和」の美しさを改めて感じさせてくれる曲。







森山直太郎さん、いいですね!

女子高生たちのコーラスが本当に圧巻です。

2010/06/04 16:11 | 未分類COMMENT(0)TRACKBACK(0)  TOP

良いこと? 悪いこと?

最近、ホントによく目にする
「パワースポット」
と言う言葉。

ちょっと、言葉バブルですね。

でも、パワースポットに行ったからと言って、
何か良いことがあるなんてことは、

「絶対にありませんからっ!」笑



「そこに行ったら、神様からパワーがもらえる!」
とか、ちょっと考えただけでも可笑しいと思えることを
平気で言ってるようでは、駄目ですよ!


じゃあ、行けない人は神様からパワーがもらえないのですか?


寝たきりの人や、
朝から晩まで家族のために必死で働いている人。
介護をずっとされている方。
医療従事者の方。

その他にも、ご自身の人生に必死で向き合っておられる方々。

そんな人たちに、神様が味方しないなんてことはない。


自分の子供が川で溺れているときに、
神様に祈ってたって、仕方ないのだ。


また、
「いい年にしたい」
とか、
「悪い年にならないように」
なんて言葉も聴く。


仰ることが良い、悪いは別として、ボクもふと、良い年、
悪い年ということを考えてみた。



良い年。

例えば、宝くじが当たった。
3億円が手に入った。


これが本当に良かったのか、ボクには結構疑問だったりする。


あまり、宝くじが当たったという人が表に出ることはないだろうけど、
宝くじが当たったせいで、勝手にある日急に会社を辞め、
評判を落としたという人の話を聞いたことがある。

宝くじが当たったせいで、近所からの妬み・嫉み・僻みがひどくて、
結局遠方に引越しをしなければならなくなった、という話も聞いたことがある。
(ついでに、その人は、
そこでも「宝くじが当たった家」として、苛められているとか・・・)



急に親切にしてくれる人が増えて、
この人が単に「おこぼれ」が目当てなのか、
本当に親切にしてくれているのか、
その辺りが自分でも信じられなくなる、
という声も聞いたことがある。

「結局は金目当てなのか」と・・・。



おそらく、同じ理由で美人の人、スタイルが良い人も
嫌気が差しているのかも知れない。


つまり、現世的、物質的に「恵まれている」ことが必ずしも
「良い」とは、ボクには思えない。

(だからと言って、「悪い」などとは言っていない)


好きな人が彼氏になってくれたけど、
今度は失うことが怖くて、
自分を見失っていく子も沢山見てきた。

その彼氏がちょっと女の子と話をしているだけなのに、
「私より、あの子のことの方が好きになったのかな?」
なんて真剣に悩んでいる子もいた。

「私と一緒にいるよりも、楽しそうに笑っていた」
なんて言っていた。

ちょっと客観的に見れば、言いがかり? とも取れそうなくらいの
被害者意識に苛まれることもある。

だったら、「彼氏」なんて作らない方が、その子らしく楽しく
学校生活が送れたんじゃないかななんて思うこともある。



一方、病気で苦しんだとしても、
普段は何も話しかけてくれなかった父親が、
「おい、大丈夫か? 欲しいものがあれば、言えよ。」
なんて声を初めてかけてくれた。

その一言が何よりも嬉しかった。
なんて言う人もいた。


ボクも、オーストラリア留学中にベル麻痺を患い、
顔の左半分が動かないという、全くの失意の中で
母親の元に戻った時、何も変わらないいつもの穏やかな表情で、

「おかえり。
大変だったね。」

と一言言ってくれた母親の凛とした温かさを
昨日のことのように思い出す。



誰かにひどい仕打ちをされたとしても、
降って湧いたような災難に遭遇しても、
それを理解してくれて、寄り添ってくれる仲間に
出会えることができたこと。

そのきっかけを与えてくれたのが、
「悪いこと」
だとしたら、それってホントに「悪いこと」だったのかな。



全ては変わりゆくもので、それを全ての過程だと考えるならば、
「結果」について、とやかく言うことは、「どの時点」でも早いんじゃないか。

だから、
「人を裁いてはいけない」
というのだろう。

全ては「過程」なのだから。


そして、善悪の判断の基準になるものは、
いつもその人の、その時の「ものさし」だ。

昨日の悪いは、今日の良いになるかもしれないし、
今日の良いは、明日の悪いになるかもしれない。


歴史を見れば、そんな例は、沢山出てくる。

タバコは昔、子どもも吸っていて、
健康のために良いと言われていた。

カップ麺のスープは、身体に良いと、
最後まで飲んでくださいと推奨していた。

安土桃山時代、キリスト教は歓迎された。
しかし、江戸時代は、キリシタンに対して弾圧をしていた。


戦争時分は、アメリカ・イギリスに対して、鬼畜米英と言っていた。
ちょっと前の日露戦争のときは、イギリスとは同盟関係にあったのに。

ちょっと昔は、ポケベルを持っていないと、
「ダサい」と言われていた。
今は、ポケベルと持っていると、
「うわ! 化石がある!」
なんて言われるのかな。

霊の話をしようとすると、
「気持ち悪い」
と言われていた。


いずれも今はどうだろう。


変わっていくこと。


その過程を愛すること。

ボク等が生まれる前に選んできた出来事は
変えることができない。

それらは、ボク等が何であるかということを思い出すために
自分たちで用意した「道具」なのだから。

ただ、それをどういう風に受け止めて、
どういう自分でありたいか。


他人を攻撃することは、
自分が被害者だと思い込んでいるからだ。


でも、それはそれで良い。


いつか被害者でいる自分が嫌になるときが来るだろう。
それまで心を添わせることができるか。

それがまた、周囲の人が「自分のため」に用意した環境なのかも知れない。



物事は、1面だけで、
自分が見える範囲だけで、
判断してはいけない。

真実の奥にもまた、真実があり、
その奥にもまた真実がある。


そして、宇宙が膨大なスピードで膨張するように、
真実もまた、一箇所でじっとはしていない。


ただ、
「どういう自分を表現したいか」
その問いだけが、いつもボク等の目の前にぶら下がっている。


「人に優しくしたい」
と思うのであれば、
「今、私が優しければ、何をするのか」
を考えれば良い。

目的地を目指すために、目的地から離れてはいけない。

ボク等は元々、「目的地」に居るのだ。
だから、ただ、そこに「居れば」良い。

優しくなりたいのなら、
優しくなりたい、と思ってはいけない。

ボク等は元々優しいのだ。



叡智が欲しいのなら、
叡智が欲しい、と思ってはいけない。

ボク等は元々、叡智を授かっているのだ。



愛が欲しいのなら、
愛が欲しいと思ってはいけない。

ボク等は元々愛なのだ。


そういう自分をいつも表現していく。

だから、一瞬一瞬がいつも「聖なる瞬間」なのだと思う。

2010/06/02 22:28 | 未分類COMMENT(2)TRACKBACK(0)  TOP

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